2010年4月12日月曜日

[説教要旨] 2010/3/7 「実りの時を待つ」 ルカ13:1−9

四旬節第3主日

初めの日課 出エジプト 3:1−15 【旧約・ 96頁】
第二の日課 1コリント 10:1−13 【新約・ 311頁】
福音の日課 ルカ 13:1−9 【新約・134頁】

 本日の福音書の前半では、犠牲祭儀の際にガリラヤ人の血が混じったという事件について主イエスが尋ねられている。歴史上それがどのような出来事であったのかは、定かではないが、おそらくエルサレムの神殿にガリラヤからやってきた巡礼が、ローマ人総督ポンテオ・ピラトの手のものによって殺された(あるいは少なくとも血が飛び散るほど深く傷つけられた)ということであったと考えられる。ガリラヤは、主イエスとその弟子たちの故郷であり、また熱心党と呼ばれる民族主義運動の盛んな地域でもあった。血気盛んな民族主義者の仲間を、その運動の精神的支柱である聖なる場所で傷つけ、血を流して汚すということは、おそらくローマ側からの挑発行為であったのではないかとも考えられる。主イエスの弟子にも熱心党と呼ばれたシモンがいた(6:15)。その意味で、ガリラヤ人の血が神殿で流されたという出来事は、主イエスとその一行にとって他人事ではなかった。そこでは、主イエスを自分たちの陣営に引き込もうとする民族主義者であれ、あるいは、主イエスがそうした運動に加担したといって陥れようとしている敵対者であれ、周囲の者が期待したのは、そのような蛮行に対して、己の信ずる正義を掲げることであった。周囲の人々は、主イエスが掲げた正義をそれぞれの思惑で利用しようと待ち構えていた。しかしそれに対して主イエスが応えたのは、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅ぶ」という言葉であった。
 主イエスが求める「悔い改める」ということ、それは、私たちが「正しく」あろうとする努力、あるいは私たちが自らの正義を掲げる努力なのではない。それらを求めた結果は、エルサレムの都と神殿の崩壊であったことを、歴史は私たちに伝えている。その一方で、主イエスは己の正義を貫くことなく十字架において殺されるも、しかしその死から蘇られた。その主イエスの語られる「悔い改め」とは一体どのようなことなのであろうか。
 後半のたとえ話では、いちぢくの木が実をつけないために、主人はその木を切り倒そうとする。しかし園丁は主人に、今少し実りの時をまってくれるように懇願する。木が実る見込みがあったから、切り倒されないことが認められるのではない。ただこの園丁の執り成しによってのみ、滅びから救い出され、実りの時を待つことが実現するのである。私たちを滅びへの道から救い出しうる事柄、それはただこの執り成し手である主イエスが共におられるということしかない。私たちにはただ、主イエスだけが残されているのである。主イエスの語る「悔い改める」ということ、それはまさに、ただ十字架の主イエス以外に頼るべきものが何も残されていないような、そのような有り方なのである。主イエスが私たちと共におられることによって、実りの時は待たれている。

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