2010年4月12日月曜日

[説教要旨] 2010/3/28 「未熟な弟子の賛美」 ルカ19:28−48 

枝の主日

初めの日課 ゼカリヤ 9:9−10 【旧約・ 1489頁】
第二の日課 フィリピ 2:6−11 【新約・ 363頁】
福音の日課 ルカ 19:28−48 【新約・ 147頁】

 教会は、今年も枝の主日を向かえる。私たちは、四旬節において、主イエスの受難、十に至る道を憶え、主の復活を待ち望む。私たちは、枝の主日を毎年のように向かえるが、イエス・キリストが十字架に架かり死なれた出来事は、歴史上ただ一回限り起こった出来事である。四旬節とは、何のための・誰のための期節なのか。それは、ただ私たちの救いのためだけの期節なのである。主イエスは、ただ私たちを罪から解放し、永遠の命に与らせ、平和を実現されるためだけに、この世に生まれ、十字架に架かったのである。本日は、特にそのことを憶えていきたい。
 本日の福音の日課において、主イエスはエルサレムに入城される。ガリラヤからの福音宣教の旅の目的地に、いよいよ到着するのである。主イエスがエルサレムに入城されるに際して、弟子の群れは声高らかに「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」と賛美する。この賛美は、主イエスの誕生に際して、天使の大軍が羊飼いたちに「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美したことを彷彿とさせる。主イエスは、世に平和を実現される王、預言者を通して神が約束された救いを成就される者としてエルサレムに入られたのである。同時に、主イエスは世に誕生された時から、既に十字架への受難の道を歩まれていたのである。主イエスの十字架への道は、ただ私たちの救いのためだけにある。私たちは、主イエスの十字架への道を通して、主イエスの受けられた受難の中に、神の私たちに対する深い愛が示されているのを見る。その意味で、主イエスの福音宣教の旅の最終目的地は十字架である。
 弟子たちは、主イエスをエルサレムへ迎える時、賛美した。これは、弟子たちが賢く、成熟しており、イエスが救い主であると十分理解していたから賛美したのではない。むしろ、弟子たちは、主イエスが逮捕されると、否認し躓いた。しかし、弟子たちは主イエスに対して真実な告白をしている。主イエスは、救い主であり、平和を実現される方なのである。未熟な弟子たちは、キリストに用いられることによって、救いの計画を担い、また救いに与ったのである。私たちもキリストの弟子であり、自分の理解や判断を超えて神に用いられている。その様な未熟な私たちをも救いの計画に用いてくださる神に感謝し、私たちの救いのために十字架に架かられる主イエスの愛を憶えたい。

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