2010年4月12日月曜日

[説教要旨] 2010/4/11 「心は燃えていた」 ルカ24:13−35 

復活後第1主日

初めの日課 使徒言行録 5:12−32 【新約・ 221頁】
第二の日課 黙示録 1:4−18 【新約・ 452頁】
福音の日課 ルカ 24:13−35 【新約・160頁】

 主イエスが復活された日曜の夕方、二人の男がエルサレムから近郊の村エマオへと向かっている。主イエスの弟子であった彼らは、「暗い顔をして」いたと17節にあるとおり、主イエスの十字架での刑死と、その亡骸がなくなったという不可解な事件を前に、どうしてよいかわからなくなっていたと思われる。
そこに、一人の男がやってくる。読者である我々にはそれが甦られた主イエスであることが示されているが、登場人物である二人にはそれは隠されていた。彼らは、尋ねてきたこの男に、自分たちのこれまでの体験を語る。それは、地上における主イエスとの交わりの体験であり、またその十字架の死と、空の墓についての証言を聞いたというものであった。その言葉は、ある意味では信仰告白(使徒信条)の一部に通ずるようにすら思われるほど、主イエスの受難を的確に要約している。しかし、それが信仰の告白となるには、未だ不十分であった。その意味では、この時まだ、彼らは真の主イエスとの出会いを体験していなかったのである。
 地上の主イエスを彼らは「知っていた」にも関わらず、復活の主イエスご自身を前にして、彼らは「あの方は見あたりませんでした」と語る。しかし、主イエスが聖書について解き明かし、そして共に食卓を囲んだ瞬間に、彼らは主イエスが共におられることが「分かった」と聖書は語る。ここに私たちは、信仰の本質を見ることが出来る。主イエスはもういない、主イエスはどこにいるのか、その悩みと不安の中にいる時、既に主イエスは悩み恐れる者と共におられるのである。しかし、そのことは私たちが望むような、あるいは予想するような仕方では、私たちには明らかにはされない。私たちの地上の「目」に見えるのは、ただ空の墓という事実だけなのである。それは私たち人間の論理にとっては、喪失と空虚さを示すだけでしかない。喪失と空虚さにのみ目を向ける時、共におられる主イエスを私たちは「見る」ことは出来ない。しかし、聖書の言葉が語られる時、そして主イエスの食卓との交わりがなされる時、その喪失と空虚さの事実は、私たちに与えられた大いなる喜びであること、それは主イエスが私たちと共におられることのしるしであることが「わかる」のである。
 「暗い顔」をしてエルサレムから旅をしてきた二人の弟子は、彼らに失われたものを悲しみ、そして不安に襲われていた。しかし、主イエスとの出会いを思い起こし、「わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合い、逃げるようにして旅立ったはずのエルサレムで彼らに起こった出来事を伝え始める。主イエスとの出会いは、暗い顔をした彼らを「喜びを語る者」へと変えた。主イエスの復活とは、喪失と空虚さに打ちのめされる私たちを、喜びを語る者へと変えしめる出来事なのである。

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