2015年10月1日木曜日

[説教要旨]2015/07/5「この人はどこから」マルコ6:1-13

聖霊降臨後第6主日 初めの日課 エゼキエル書 2:1-5 第二の日課 コリントの信徒への手紙二 12:2-10 福音の日課 マルコによる福音書 6:1-13 本日の福音書では、主イエスは故郷であるナザレへ弟子たちと共にと向かう。ガリラヤの各地で神の国の到来を宣べ伝え、力ある業をなしてきた主イエスは、故郷の地では理解されなかった。故郷の人々が主イエスを理解出来なかった、受け入れることが出来なかったのは、主イエスが教えられた神の国、そして力ある業は、彼らが直接的に知っている、イエスという人物の個人史と結びつかなかったのでした。彼らはあくまでも自分達の体験と知識の延長として、主イエスを理解しようとしていた。しかし、神の国の福音を告げる主イエスは、故郷に留まる人々が知る、彼らが留まるに心地良い世界には留まってはおられなかったのでした。そうであるならば、主イエスはどこにおられたのであろうか。どこから、主イエスはこられ、どこへと向かおうとされているのだろうか。 続く箇所に目を向けると、主イエスが弟子たちを派遣されことが報告されている。彼らに、主イエスに並ぶ働きを任命する。その際に彼らに命じることは何も持たない放浪の生活であった。弟子達が良く見知った快適な場所に留まることを、主イエスは望まれない。しかし弟子達が、主イエスに派遣され、放浪を続ける時、彼らは主イエスと同じく、人を蝕む悪の力と戦い、病の人を癒すことを実現するのであった。 主イエスは、全てが整えられ、全てが準備された、慣れ親しんだ場所に留まることを良しとはされなかった。主イエスは、ひたすら巡り歩き、人々から見捨てられた者、病の者、排除された者を訪ね、癒し、慰め、励まされる。それこそがまさに神の国の福音に他ならなかった。主イエスが訪れる時、それはまさに神の国が近づく時であった。なによりも主イエスこそが、この地上に現れた神の国そのものに他ならなかった。すなわち、主イエスこそが、人々が帰るべき新しい故郷であった。 故郷の人々は、そのような主イエスの姿を理解することが出来なかった。主イエスの示された、神の国、新しい永遠の命は、故郷の人々が望むような、自分の日常が整えられ、満たされ、全てが自分のコントロールの元にあることの延長線上にはなかった。 先週私たちは、ルター小教理問答を通して「十戒」について学んだ。信仰の基としての十戒は、イスラエルの民が、帰る場所を失った荒れ野の中において与えられたのだった。帰る場所はない。けれども、進むべき道はある。神への信仰は、新しい道を民へと示すこととなった。 そして主イエスは、聖書を通して私たちをもまた新しい道へと呼び掛けられる。それはご自身がその十字架によって開かれた、新しい命への道に他ならない。主イエスは、孤独と悲しみの中にあるものをひたすら訪ね求め、そして自ら十字架の死へと向かわれた。十字架の死、それは人の目には悲嘆と挫折の行き詰まりの道である。しかし、その死から主イエスは甦り、新しい永遠の命への道を私たちに開かれた。主イエスはこの地上における悲嘆と挫折の中にある私たちを訪ね、慰め、癒される。そのことを知る時、私たちもまた、帰る場所を失い悲嘆の中にある人々と共に、新しい場所を造りあげてゆくことができるのである。それこそが、新しい故郷、キリストの教会に他ならない。この世の嘆きと挫折の中で私たちと共にいて下さる、私たちの新しい故郷、主イエスを憶えて日々を歩みたい。

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