2015年10月2日金曜日

[説教要旨]2015/07/12「死から甦ったのは」マルコ6:14-29

聖霊降臨後第7主日 初めの日課 アモス書 7:7-15 第二の日課 エフェソの信徒への手紙 1:3-14 福音の日課 マルコによる福音書 6:14-29 7月に入り、1年の半分が過ぎた。教会の暦では6/24は「洗礼者ヨハネの日」となっている。ヨハネ3:30で洗礼者ヨハネは主イエスについて、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」と語る。この言葉は、この地上の命が短くはかないものであることを私たちに思い出させる。しかしこの言葉は、衰え失われてゆく自ら命だけを見つめて語られたのではなく、むしろ洗礼者ヨハネの目は主イエス・キリストに向けられていることに私たちは気付かなければならない。洗礼者ヨハネは、自らが向かうその深い闇の支配の先に、命の勝利の光が輝いていることを告げている。その意味では、この言葉はむしろ、衰え失われる命への嘆きではなく、むしろ、絶望の中に希望を見出した者の言葉として私たちのもとに響いている。 本日の福音書では洗礼者ヨハネの最期の様子が描き出される。そこでは、人間の権力欲、ねたみ、怒り、憎しみが渦巻く様子が描かれる。それはまさに洗礼者ヨハネが向かった、この地上の闇の深さを物語っている。主イエスの先駆者である、洗礼者ヨハネの最期についての報告は、ヘロデ大王の息子の一人であったヘロデ・アンティパスが、主イエスについて聞き及び、洗礼者ヨハネを思い起こした、という文脈で語られている。それはまさに、洗礼者ヨハネの辿った道が、主イエスの道の先触れであることを、今聖書を読む私たちに思い起こさせる。洗礼者ヨハネが、この世の闇のただ中に踏み込み、その中で命を落としたように、主イエスもまた、闇の中に切り込んでゆくその道を歩んでいかれることを、福音書の物語は示唆している。しかし福音書は非常に巧みに、さらに別の事柄に注意を向けるようにしむけている。主イエスについて聞き及んだ人々は、主イエスを「エリヤ」だとか「預言者だ」と語り、そしてその評判を聞いたヘロデ・アンティパスは、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と語る。しかしながら、人々が語るそのいずれもが、主イエスとは何者かという問いに対する答えとはならなかった。その答えは物語がさらに十字架の出来事まで進むことを待たなければならなかった。 しかし、その十字架の死から、主イエスは甦られた。この十字架の出来事によって、闇がより深く濃くなってゆく道を歩みながらも、その闇から抜け出る道、命と救いの道を主イエスは私たちに開かれたことを、聖書は語る。この世の不安と恐れの闇のただ中に誰よりも深く踏み入った主イエスは、誰も見出すことの出来なかった、さらにその先に続く道、命と救いの道を私たちに開かれたのだった。そうであるからこそ、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」というヘロデの叫びに対して、今や私たちは「いや、そうではない、それは、死から蘇られた方、命への道を開かれた方、私たちの救い主キリストなのだ」と答えることが出来るのである。 現代の私たちはまさに恐れと不安の闇にまた包まれようとしている、と言える。しかし、主イエスはその闇の中へと歩み入り、その闇の向こうへと続く、命への道を私たちに開かれた。この地上における恐れの中で、主イエスは既に私たちに命と救いの道を備えて下さっていることを憶えて、日々を歩んでゆきたい。

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