2015年10月2日金曜日

[説教要旨]2015/08/30「人の心から出るものは」マルコ7:1−8、14-15、21-23

聖霊降臨後第14主日 初めの日課 申命記 4:1-2,6-9 第二の日課 ヤコブの手紙 1:17-27 福音の日課 マルコによる福音書 7:1-8,14-15,21-23 悪はどこから来るのか。それは、神学的には長い議論がある。しかしいずれにしても、私たちの命は、大小を問わず悪に翻弄されていることを実感する。ところが悪の恐ろしさとは、単に私たちが外側から悪の力の被害者として痛みと苦しみを与えられるだけでなく、私たち自身の誰もが悪をなすものとなり、痛みと苦しみを誰かに与えうる。それが悪の最も恐ろしい力である。悪の力にさらされているのは、私たちの外面だけではなく、内なる私たちもまた悪の力にさらされている。この悪に対抗する力を私たちはどこから得ることが出来るのか。 本日の福音書マルコ7章の冒頭では、ガリラヤ湖畔で活動する主イエスを、エルサレムから来た者たちが、正しく清い生活を守るための形式について問い詰める。その形式としてここでは「手を洗う」ということが問題となっている。食事の前に手を洗うことは衛生的理由だけではなく、宗教的・儀礼的な「汚れ」を清め、悪が自らの内に入り込むことを防ぐ意味がそこには込められていた。しかし、それに対して、主イエスは、どれだけ表面的には、素直にそして清さを保っていたとしても、その内面から奥底からの悔い改めがなければ意味が無いのだ、と根本的な反論をする。自らの外なる悪を恐れるだけでなく、内なる悪について主イエスは問題とする。 神が望まれることは、心からの悔い改めであって、表面上の形式ではない。神は形式的なものを要求していない。主イエスの問いかけは現代を生きる私たち一人一人の魂に突き刺さる。手を洗わないことが汚れているのでは無い。そうではなく、他者を傷つけ、奪い、そしてそのことを無かったかのように振る舞い、自分を正当化する。そのようなことこそが、まさに悪の力によって蝕まれた姿であることを、聖書を通して主イエスは私たちに問いかける。 5世紀の神学者アウグスティヌスは、神は世界を善でもって創造したのであって、「悪そのもの」が存在しているのではない。悪とは、善が欠如している状態である、語った。これをさらに言い換えるならば、善とは、この世界に命をあたえられた神の愛の働きであると言える。つまり、悪とは神の愛が届いていないということだと、受け取ることもできるだろう。そう受け取るならば、神の愛なしに、私たちは、外からもまた内からも、悪に翻弄されるしかないと言える。私たちに神の愛が与えられることなしには、私たち人間の心から出るものは、ただ他者を傷つけ奪いながら、それを忘れ、自らの正しさを誇り、他者の痛みと傷をさらに深くすることしかできない。ならば、神の愛は、私たちにどのように届くのだろうか。 その私たち一人一人の心と魂に、神の愛を届けるために、主イエスが与えられたことを聖書は告げる。主イエスの言葉と十字架の出来事は、私たちに神の愛を届けるためのものに他ならない。私たちは、ただ主イエスの言葉に聞き、そして主イエスの十字架の出来事をこの自分自身の身に引き受けるとき、悪に対抗し、自らの過ちを振り返り、その過ちによって生み出された痛みと悲しみを悔い、そして,新しい命へと向かう未来へと共に向かうことが出来るのである。主イエスがその教えと業、そしてなによりもその十字架によって示されたもの、それこそが私たちに与えられる神の愛、悪に対抗する力なのである。

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