2015年10月2日金曜日

[説教要旨]2015/07/19「村でも町でも里でも」マルコ6:30-34,53-36

聖霊降臨後第8主日 初めの日課 エレミヤ書 23:1-6 第二の日課 エフェソの信徒への手紙 2:11-22 福音の日課 マルコによる福音書 6:30-34、53-56 私たちを分断し、対立させ、そして憎しみ合わせようとする、様々な力が、私たちの生きる地上を引き裂いている。主イエス・キリストを救い主として信じる者達はそのような力にどのように立ち向かってゆけば良いのだろうか。 本日の福音書では、派遣から戻った弟子たちと共に主イエスは食事と休息をとろうとされるが、人々は先回りして彼らを待ち構える。人々は教えと癒しを求めないではいられない。主イエス達に休息を許さない群衆に、主イエスは怒りをぶつけることはなかった。主イエスはこの大勢の群衆を見て、「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められ」る。群衆は主イエスにとって、対決するべき存在では無かったのである。一行が再び湖を渡った後も、次から次へと繰り出される要求に、主イエスは応え続ける。主イエスが訪ねる所には常に、人々が押しかける。それは「村でも町でも里でも」そうであった、と福音書は語る。村とは人の住む集落、町とは都市を指している。里というのは、むしろ農地、畑、という意味の言葉が使われている。1世紀の後半のパレスチナでは、農地で働く者達は、厳しい税の取り立てにあえぎ、負債を抱え、土地を手放し、奴隷に身を落とすことが少なくなかった。その結果、多くの農地は、都市に住む不在地主によって独占管理されるようになっていった。そうした光景を、村に住む者達は、苦々しく思っていたようである。蓄積されたそうした思いは、やがてローマ帝国とユダヤとの戦争へと人々を駆り立ててゆくこととなった。村と町と農地、いうならばそれは互いに引き裂かれ、対立しあう関係のものであった。しかし福音書では、主イエスが共におられるところでは、村でも町でも農地でも、主イエスを求めるその思いにおいて一つであることが語られる。主イエスを求める全ての人は癒されたのだった。私たち人の目から見て分断された場所であったとしても、主イエスが訪れる所では、その隔ての壁を越えて、人々を一つに結びつけられる。主イエスがこの地上の世界でのべつたえられた、「神の国」は近づいたということは、まさにそのようなものであった。まさにその意味で、主イエスが訪れる所に、神の国は近づいてくる。そして主イエスは、無限の寛容さをもって、求めるもの、必要とするものを、それぞれに満たし、癒されるのである。 福音書の物語は、主イエスはご自身を求めていた群衆に裏切られ、十字架に付けられる。しかし、主イエスはその死に留まることはなかった。神は主イエスを甦らせ、憎悪と対立、なによりも不寛容さの支配するこの地上の世界の中で対立する私たちを、主イエスの命によって結びつけられた。それまさに、限りの無い神の国の恵みの義にほかならない。 互いに引き裂かれ、対立と憎悪が支配する時代を、私たちは今生きている。しかし、村でも町でも里でも、主イエスが私たちの元を訪れられる時、私たちは、嫉妬、憎悪、怒りを越えて、恵みを分かち合えることを聖書は私たちに語りかける。この地上で、主イエスは私たちと共におられ、飼い主のいない羊のような有様を見つめて、私たちを一つに結び合わせてくださることを憶えて、私たちの日々を歩みたい。

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