2015年9月28日月曜日

[説教要旨]2015/06/14「どうしてそうなるのか」マルコ4:26-34

聖霊降臨後第3主日 初めの日課 エゼキエル書 17:22-24 第二の日課 コリントの信徒への手紙二 5:6−10、14−17 福音の日課 マルコによる福音書 4:26-34 本日の福音書箇所を含むマルコ福音書4章では「神の国」に関するたとえ話が語られている。しかし、これらの神の国についての教えは、わたしたちの日常の延長で想像できるような、天国の姿を伝えてはいない。むしろそれらは、私たちが思いもよらなかったような全く新しい生き方を示している。 本日の箇所の前半「成長する種のたとえ」で「ある人」として登場する人間は、穀物の成長に対して何も関与してないことが注目される。人間の努力とは無関係に「ひとりでに」実を結ぶように、神の国は「ひとりでに」成長し実を結ぶことが強調される。種の成長について、どうしてそうなるのかはわからないにも関わらず私たちはその収穫に与ることを、このたとえは語る。後半「『からし種』のたとえ」は、はじまりの小ささと結末の大きさとが印象的に対比される。その大きな結末は、はじまりの「蒔かれる時」には、全く予測がつかないものであることが強調される。旧約では度々、空の鳥は地上を移っていく移住者・寄留者を象徴するものとして語られている。小さな種は、地上に住み、収獲を期待して種を蒔く者にとってだけでなく、空を旅する鳥すらも身を寄せることができるほどのものとなる。聖書が語る「神の国」とは「神の力の及び支配領域」とも言い換えることが出来る。この世界と、そして私たち自身の命をも作られた、神の創造の力は、何もないところから、命を生み出す力である。その力がいつどのように働くかは、私たちの目から隠されているが、私たちは神が働かれたその結果を、ただ恵みとして受け取るのである。 私たちが人間として成し遂げることの出来る働きは、ごく限られた不完全なものに過ぎずない。私たちがなすことのできることは、それらを完成してくださる神の力を信頼し、また希望として、失敗や不完全・不十分であることを恐れずに歩むことでしかない。新約聖書が形づくられた時代のキリスト者達は、さまざまな困難に遭遇したであろう。しかし、彼らに伝えられた、主イエスの業と教えを通して、目に見える現実のその奥に、神の国の現実はたしかにはじまっていることを彼らは確信したのだった。 主イエスの地上での働きは、十字架の死によって中断させられることになる。それは目に見える成果として見るならば、不完全なままで挫折したということになる。しかしキリストは、その十字架からの復活によって、この世における挫折と苦しみを超えて、見えない神の力は働くということ、そして希望が必ず訪れることを私たちに示された。そして、この十字架と復活を希望とし、信頼して歩むこと、それこそが信仰に他ならない。 私たちは、日々の生活の中で、たくさんの失望と挫折とに直面させられる。予期しない出来事の前で、思い通りにならないことや、期待通りではない決断を迫られることがある。しかし、その私たちには、既に聖書を通して主イエスの十字架と復活が伝えられている。この聖書が伝える出来事を通して、私たちは、自分の思いと力と知恵を超えて、神は全てを良しとされるのだということを確信するとき、私たちは全く新しい生き方へ、主イエスの御後に従う道へとその歩みを進めることが出来るのである。

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