2015年9月28日月曜日

[説教要旨]2015/05/10「キリストの愛に留まる」ヨハネ15:9-17

復活節第6主日 初めの日課  使徒言行録 10:44-48 第二の日課  ヨハネの手紙一 5:1-6 福音の日課  ヨハネによる福音書 15:9-17 本日の日課9節には「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」つまり、父なる神が主イエスを愛されるということと、主イエスが私たちを愛されるということが、対等の価値をもつかのように記されている。しかし、この二つの事柄は決して等価値を持つということに私たちは違和感を持つ。父なる神が御子イエス・キリストを愛するとうことと、その主イエスが私たちを愛されるということは、同じ次元の事柄ではない。実に、私たちがそのような主イエスの愛の中にいるということは、決してあたりまえのことでも当然のことでもない。そうであるからこそ、それは恵みに満ちた言葉なのである。そして、それに続いて「わたしの愛にとどまりなさい」というキリストの掟を聞く。ここで「わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」とあるからと言って、キリストの掟を守ることが、決して主イエスの愛は条件付の愛であるということではない。なぜなら主イエスの愛は条件付などではなく、無条件の、無制限の愛だからである。したがって、むしろここで「わたしの掟を守るなら、」とあることは、わたしたちが私たちの硬く閉ざした心の扉を開き、主イエスのその愛を受け止めるならば、ということなのである。 ヨハネ福音書において、今まさに十字架に向かおうとする主イエスが、弟子達に向かって、長い別れの言葉を述べる。その中で主イエスが「互いに愛し合いなさい」と語り、そして「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」語られる。その愛とはまさに主イエスがその十字架において示された愛、無条件で無制限の愛に他ならない。しかし私たちは自己中心的な愛から離れることの出来ない存在でしかない。けれども、同時に、私たちはそのような私たちのためにすら、主イエスはその命を献げて下さった。そのような愛が私たちに注がれていることを、この箇所は語る。 主イエスは弟子達に対して、ひいては私たちに対して、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない」と語られる。主イエスの友となるということは私たちがなにか人間以上の存在になるということではない。それは、わたしたちが喜びに満たされて日々を歩むことができるということに他なりません。それは、たとえどんなに小さく弱い者であったとしても、私たちが愛されるに値するかどうか、そのように強く大きい者であるかどうかに関わらず、キリストの友として既に私たちに注がれている無条件の愛を、私たちが受け入れることなのである。 キリストの言葉は、時を超えて現代の日本に生きる私たちのところにも届いている。私たちに迫ってくるこの世の力とは、ヨハネが闇と呼んだ、奪い取り、支配することを望む、欲望の誘惑である。この闇の力に抗い、神の愛によって渇きを癒され、喜びに満たされて生きるには、友のために生きるということが不可欠であることを主イエスは語られる。それはまさに主イエスご自身が歩まれた道、あの十字架に向かう道を私たちもまた歩むということに他ならない。しかし主イエスが歩まれたその道は今や、私たちにとってはもはや苦しみの道ではなく、神の愛が運ばれてくる道となっている。友のために、自分の命を用いてゆくこと、それこそが神の愛のうちに私たち自身が生きるということなのである。

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