2015年9月28日月曜日

[説教要旨]2015/05/03「キリストにつながって」ヨハネ15:1-8

「キリストにつながって」ヨハネ15:1-8 復活節第5主日 初めの日課 使徒言行録 8:26-40 第二の日課 ヨハネの手紙一 4:7-21 福音の日課 ヨハネによる福音書 15:1-8 本日から復活節の終わりまでは、復活節に新入信者を迎えた信仰者の群れがあらためてイエスの教えを受けとめるため、ヨハネ福音書のいわゆる「告別説教」が福音書の日課として続く。それはまた、神の霊が与えられ、教会が生み出されることとなる、聖霊降臨の出来事へと思いを向けることを私たちに呼び掛けている。 ヨハネ福音書全体のおよそ1/4にあたる分量が、最後の晩餐に関しての報告となっており、その大部分は主イエスのいわゆる告別説教が占めている。この告別説教では、まず前半で、主イエスがまもなく弟子達の前を去り、「父」のもとへと向かうこと、しかしそこで弟子達のための場所を備えられること、弟子達が主イエスの「いましめ」を守ること、主イエスが去った後、真理の霊・弁護者が使わされること、主イエスが残される平和は「世」が与えることのない平安であることが繰り返し語られる。それらは、弟子達を襲うこの世での苦難を予告しつつ、また一方では、その弟子達に与えられる、「この世ならぬ」喜びの約束となっている。そして本日の日課を含む、後半では、同じ主題が繰り返されながら、とりわけ、弟子達が主イエスにつながること、そして互いに愛し合うこと、これが主イエスのいましめであることが、特に印象的に語られることとなる。 本日の箇所では、信じる者一人一人が枝であり、それがすべて幹である主イエスにつながっている(共にいる)、ということが語られている。そしてまた、「(3)わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」これは、聖霊が与えられることを通して、信仰の共同体の中に主イエスは共におられる、ということと深く結びついている。その意味で本日の箇所は、主イエスと共に同じ時、同じ空間を生きた弟子達に対してのみ意味があるのではなく、時と場所を隔ててなお、主イエスの語られた言葉によって、私たちは主イエスと結びつけられて、今生かされているということを伝えている。ヨハネ福音書では、主イエスは「わたしは〜である」という仕方で、繰り返しご自身について語られる。それは、今を生きる私たちが聖書を通して救い主である主イエスを知るということでもある。だから今聖書を通して、この「わたし」は、「わたしはまことのぶどうの木である」と語られる主イエスに出会う。そして、その主イエスは「わたしにつながっていなさい」と呼び掛けられる。この「わたし」は今や、主イエスにつながり、の命を生きるものとなる。それは「わたしただ一人」ではなく、共に主イエスにつらなる「わたしたち」へと変えられてゆく。まさにその意味で、主イエスの命を生きる私は、今や孤独な存在では無く、主イエスと共に新しい命を生きるわたしたちなのである。主イエスの言葉によって呼び掛けられる時、私たちは、主イエスによって与えられる、新しい命に出会うのである。 自分が何のために生きているのか、何をしたいのかわからない。この世に生きる私たちは皆、そのような出口の見えない苦悩にぶつかることがある。しかし、キリストの言葉をわたしへと呼び掛けられたものとして、キリストにつながって生きる時、このわたしは、孤独のまま立ち枯れてゆくだけの存在なのではないこと、わたしはわたしたちとなり、そのわたしたちには主イエスの古びることの無い命が与えられていることに気付くのである。

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