2015年9月28日月曜日

[説教要旨]2015/06/07「神の御心を行う人」マルコ3:20-35

聖霊降臨後第2主日 初めの日課 創世記 3:8-15 第二の日課 コリントの信徒への手紙二 4:13-5:1 福音の日課 マルコによる福音書 3:20-35 本日の福音書の冒頭では「群衆がまた集まってきて、一同は食事をするヒマもないほどであった」とあり、主イエスの癒しを目の当たりにした人々が、主イエスの廻りに押し寄せる様子が描かれる。そこに主イエスの身内の者が、主イエスを取り押さえにやってくる。癒しと慰めを求めてやって来た多くの人々とは対照的に、主イエスの「身内のもの」は、この男は「気が変になっている」として、取り押さえるためにやってくる。「気が変になっている」という言葉は、字義通りには「(自分の)外側に立つ」という意味である。つまり、この言葉の中には、社会の外側に追いやられた者へと向かわれた、主イエスの姿とも言える。そのような、社会の外側へと向かい、社会の外側にある人々と共に生きようとする主イエスを、都からやってきた宗教的権威を持つ指導者達もまた「あの男はベルゼブル、悪霊の頭に取り付かれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と主イエスを非難する。たしかに権力者達にとって、主イエスが行っていることは、自分達の権威と権力の外側へと人々を連れ出し、それによって自分達が命じることの無意味さを明らかにし、自分達の権威と権力を否定するものであった。したがって、彼らにとってみれば、そのような主イエスの教えも行いも、「悪」でしかなかった。 しかし主イエスは、その非難が、実は、権力を持った者の欺瞞でしかないことを譬えを用いて指摘し、続いて誰が主本当の意味での「身内」であるかを語られる。主イエスが語られる、本当の身内とは、時代の空気や趨勢に敏感に飛び乗り、権力を守り、利益を得ようとする者達のことではなかった。むしろそれらに反することがあったとしても、神のみ心を行う者こそが、本当の身内であると語られる。それは、イエスに従う者たちが、社会の外側に追いやられた者たちと共に生き、喜びを分かち合い、悲しみを慰め合う、そのような群れとなるということに他ならなかった。 そのように神のみ心を私たちが生きることが出来るために、他ならぬ主イエスご自身が、十字架の死に至るまで、神のみ心に従って歩まれ、そしてその歩みはその死で終わることはなかった。それは、神のみ心を生きる者に「命の道」を備えるために他ならなかった。 日本カトリック司教協議会発行の戦後70年司教団メッセージ「平和を実現する人は幸いー今こそ武力によらない平和を」の結部には、1981年にヨハネ・パウロ2世が広島で行った平和アピールが引用されている。そこでは「目標は、つねに平和でなければなりません。すべてをさしおいて、平和が追求され、平和が保持されねばなりません。過去の過ち、暴力と破壊とに満ちた過去の過ちを、繰り返してはなりません。」に続いて、次のように書かれている。「険しく困難ではありますが、平和への道を歩もうではありませんか。その道こそが、人間の尊厳を尊厳たらしめるものであり、人間の運命をまっとうさせるものであります。平和の道のみが、平等、正義、隣人愛を遠くの夢では泣く、現実のものとする道なのです。」私たちは今、様々な不安と危機の中で、この地上での生を歩んでいる。しかし、その私たちの日々の中に、主イエスの十字架と復活によってもたらされた、神の御心に生きる道、命への道が備えられている。主イエスの後に従い、この命の道を歩んでゆきたい。

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