2015年9月28日月曜日

[説教要旨]2015/05/17「よろこびでみちあふれるように」ヨハネ17:20−26

復活節第7主日 福音の日課 ヨハネによる福音書 17:6−19 本日の日課である17章の祈りでは、1節に「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。」とあるように、父なる神に向き直り、地上に生きる人間の立場から、わたしたち人間を背負って、執り成しの祈りを神に向かって祈られている。主イエスはその祈りの中で「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(11節)と祈られる。この17章では繰り返し「一つになる」ことが祈られていることに気づく。そして「世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」と語る。 ヨハネ福音書の告別説教の全体では「一つになること」が繰り返し語られる。しかし全ての人の顔も色も有無を言わさず同じ色で塗りつぶし、一人一人の区別がなくしてしまう時、個々の人格はもはや尊重されず、交換可能な部品となってしまう。聖書が語る、「一つであること」の本来の意味とは何なのか。 ここでいう一つになるということは、力による抑圧的な同化を意味してはいない。わたしたち人間を背負って主なる神へと向かう祈られる、主イエスのその祈りの中では、「わたし」「あなた」「彼ら」という立場の違いは残されているからである。主イエスが語られる「一つになること」とは、暴力的な同質化ではない。確かに、ある集団が皆同じように考え、同じことを語り、同じように行動することが強制される時、一時的には力を増し、豊かになるかもしれない。その理想型とはまさにかつてのローマ帝国の軍隊であり、近代の戦争をの背景となった軍産構造そのものでもある。しかしその行き着く先は荒廃でしか無いことを、わたしたちは人類の歴史の中で見い出すことが出来る。主イエスが祈られたのは、そのような「一つになること」ではなかった。それぞれに異なる有り様を残しつつも、互いに愛し合い、互いに認め合うことを通じて、一つの命へと結ばれる、そのようなあり方に他ならなかった。それこそがわたしたちが喜びに満ちあふれるためのあり方であった。 しかしながら、わたしたちの現実に目を向けるならば、地上に生きるわたしたちは、様々な場面で、対立し、互いをおとしめあい、争い合うことを避けることが出来ないでいる。わたしたちの生のあり方はあまりにも喜びからかけ離れている。けれども、わたしたちはそのような自分たちの現実に幻滅し、失望することは必要ないのである。むしろ、そのような分裂と対立の現実の中で生きるしか無いわたしたちのために,主イエスはこの世のただ中にやって来られたからなのである。わたしたちがこの地上で互いに愛し合い、認め合う、一つの命へと結ばれて生きることを実現することを、あきらめることなく求め続けることが出来るために、主イエスは、この地上に生きる弟子達に、そしてその後に続く者達を背に負って、神に祈られるのである。たとえわたしたちの目の前にある現実が、どれほど争いが激しく、対立は深く、その裂け目を超えることが不可能であるかのように見えたとしても、その裂け目を超えて、なお進んでゆく力を、主イエスは約束され、そしてわたしたちを背負って、神に祈り求めて下さるのです。そしてこの主イエスの祈りは、今を生きるわたしたちのために続く祈りなのである。

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