2014年2月8日土曜日

[説教要旨]2014/01/26「光が射し込んだ」マタイ 4:12-23

顕現後第3主日

初めの日課 イザヤ 8:23-9:3 【旧約・ 1073頁】
第二の日課 1コリント 1:10-18 【新約・ 299頁】
福音の日課 マタイ 4:12-23 【新約・ 5頁】

本日の福音書は、前半では主イエスの公の活動が開始されたことが報告され、そして後半ではその公の活動の始まりとして、漁師たちを弟子にする様子が報告されている。主イエスの公の活動が始まるのは、洗礼者ヨハネが逮捕されたことを聞いて、「ガリラヤに退かれた」ことがきっかけとなる。
ガリラヤという土地はイスラエル北部の周縁地域であったために、古来より何度も北方の大国の支配下におかれてきた。このために移民が繰り返され、都の者達から蔑まれることも少なくなかった。一方で肥沃な農地であったために、都市の富裕層による大土地所有が進み、土地を失った農民の多くが奴隷へと身を落とし、社会格差は拡大した。いわばそこは、この世界の闇と陰が色濃い場所であった。しかしあらゆる時代の国と地域において、まさにこのガリラヤのような場所が存在することをまた私たちは思い起こす。それは現代の私たちが生きている場でもあると言える。そして、そのような場所に主イエスが「退かれた」のは、救いの物語を進めるために他ならなかった。そのことを、福音書記者マタイはイザヤ書からの引用「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」によって印象づける。しかし実はイザヤ書では「光が輝いた」となっている箇所が、マタイでは「光が射し込んだ」とされている。夜明けの瞬間に、闇の彼方から光が自分たちの元へと射し込み近づいてくる、そのようなダイナミックな表現をもって福音書は主イエスを描き出す。
主イエスの宣教活動の第一声「悔い改めよ。天の国は近づいた」は、マタイによる福音書では、既に洗礼者ヨハネが3:2で語っていた言葉であった。それはヨハネが始めたことを主イエスは引き受けられたことを物語る。そのことは、やがてヨハネが捕らえられ、処刑されたように、主イエスもまた捕らえられ、十字架において処刑されることを暗示させる。けれども、その十字架において、主イエスは救いと永遠の命を与えられたこと、それこそがまさに良き知らせすなわち福音であること、救いの出来事は展開してゆくことを福音書は物語る。マタイ福音書は、主イエス自身がガリラヤへと退くことを「光が射し込んだ」と語る。つまり主イエスが闇と影の地へと退かれたことによって、光は私たちのところへと射し込み、天の国が私たちに近づいたのである。だから闇と陰に覆われた場所にしか生きることの出来ない私たちは、そこに差し込む光、主イエスに自らの存在を委ねることが出来るのである。
暗闇の地に射し込んだ光、主イエスは、その最初の宣教活動として、湖のほとりに生きる漁師たちを弟子へと召し出す。ペトロと呼ばれるシモンたちが、主イエスに従うものとなったのは、何よりも主イエスの招きの呼びかけがあったからだった。主イエスご自身が、ペトロたちの生きる、その湖の畔へと歩み寄って呼びかけ、光の中へと召し出されたのである。続いて聖書は、主イエスはガリラヤ中を回り、教え、良き知らせを述べ伝え、そして人びとを癒されたことを伝える。それはまさに、私たちが生きる地に、主イエスの光が射し込んで来ることを物語る。
その光の中へと招く主イエスの言葉を、私たちは今も聖書を通して私たちは受けとっているのである。

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