2014年2月22日土曜日

[説教要旨]2014/02/16「 しかし、わたしは言っておく 」マタイ 5:21-37

顕現後第6主日
初めの日課 申命記 30:15-20 【旧約・ 329頁】
第二の日課 1コリント 3:1-9 【新約・ 302頁】
福音の日課 マタイ 5:21-37 【新約・ 7頁】

本日の福音書は、先週から続いて、「山上の説教」と呼ばれているマタイ5-7章の一部が取り上げられている。本日の日課の一つ前の段落では、主イエスは「律法と預言を完成するために来た」と語られる。本来、モーセが神と結んだ契約とは、律法を通して、神はいつも人と共にいる、ということであった。しかし、長い年月の間に生活形態が大きく変化し、古い文言によって規定された伝統的な生活をおくることは困難になってゆく。結果として人々は、「律法を守れる者」と「守れない者」とに分断されることとなった。主イエスの時代、律法を守ることのできる「正しい人」とは、伝統的な生活を維持することが可能な者たちに限られることとなった。決められた律法を守ることのできる者は自らを人間として価値高いものとみなし、守ることのできない者を価値が低いものとして切り捨てることとなった。
しかし、本日の日課で主イエスが語られることは、人間が自分で勝手に正しいと思いこんでいる正義、人の正義を否定する。そこでは何度も「(あなたがたも聞いているとおり、)?と命じられている。しかし、わたしは言っておく」という主イエスの言葉が繰り返される。この主イエスの「しかし」という言葉は、私たち自身が創り上げてしまっている人を裁いてしまう私たちの思いこみに対して発せられている。山上の説教はその冒頭で「幸いである」という祝福の言葉から始まる。これらの祝福は、私たちが懸命に努力するから達成出来ることというよりも、私たちの外から、救い主キリストが語られるからこそ、それは私達の生きるこの現実の世界に力をもたらすものとなる。
本来、律法は、神が恐れと不安の中にある人間に常に愛を注いで、守り導いていることの証しであり、神がその愛によって、人を生かすためのものであった。しかし、それがいつのまにか、愛の要素が抜け落ち、自らの恐れと不安を打ち消すために、他者を裁き、分かち、自らの正しさを言いつのるためのものへと変わってしまっていた。その結果、むしろ人は、神の愛から離れてしまっていた。主イエスは、まさにその神の愛へともう一度人間を引き戻すために、この世界へとやって来られたのでした。まさにその意味で、主イエスは「律法の完成者」、律法の本来の姿を取り戻す方に他ならない。人を裁き、攻撃し貶めることしかできなくなった律法を、主イエスは根本から作り替える。それは、律法に名を借りた、恐れと不安から人を解放し、神の愛による支配をうち立てることであった。
何よりも主イエスは、その十字架によって、神の愛を私たちに示された。それは主イエスが、私たちが負うべき苦しみを共に担って下さったということに他ならない。この主イエスの、自分自身を空しく無に等しいものとしてまで、他者と共に歩むという姿こそが神の正しさなのである。それは、対立ではなく和解を、憎しみではなく分かち合いを生み出すため、己を空しくしていくことでもある。確かにそれは、この世の価値基準からみるならば、愚かで無意味なことと見えるかもしれない。しかし、それは決して古びることもなく、色あせることも、時代遅れになることもない、永遠の価値を持つものなのである。

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