2014年2月22日土曜日

[説教要旨]2014/02/09「あなたがたの光を」マタイ5:13―17

顕現後第5主日
初めの日課 イザヤ 58:1-9a 【旧約・ 1156頁】
第二の日課 1コリント 2:1-12 【新約・ 300頁】
福音の日課 マタイ 5:13-20 【新約・ 6頁】

本日の福音書は、5章から7章まで続く「山上の説教」の一部となっている。それは主イエスを中心にして弟子たちが集い、そしてさらにその背後に大勢の群衆がいることが考えられている。その意味で、ここで語られる言葉は、主イエスに従う者全体に対して向けられていると言える。本日の箇所では、これらの弟子達そして人々に主イエスは「地の塩」「世の光」になれ、とは命じてはいない。そうではなくあなたがたは地の塩「である」、世の光「である」と、現にそうであるものとして語られている。主イエスを信じ従う者になるために、この世で立派で正しい行いをしなければならない、ということではない。そうではなく、主イエスを信じ、その福音を受けて生きるということそのものが既に、「地の塩」「世の光」であることの核心部分なのである。
主イエスは、闇の中で苦しむ人々の真の光であることが、4章の終わり、主イエスの宣教の開始の場面で語られた。それはまさに「曙のように」差し込んでくる光である。そして今や、私たちのところにその光は届き、私たちはその光を受けているがゆえに「あなたがたは世の光である」と主イエスは語られるのである。この主イエスの恵みの光は、人間の不安や怖れによって覆い隠すことは出来ない。主イエスから与えられる恵みと喜びを、私が自分だけが豊かにそして強くなるために、自分だけの中に確保し、消費することもまた出来ない。たとえ、そこで私たちがなし得ることが、ごく僅かなものであったとしても、人の目には不十分なものにしか映らなかったとしても、この恵みは隠されることなく、必ず輝くのである。
本日の初めの日課であるイザヤ書58章は、ユダヤの民が半世紀あまりにわたる、異国の地バビロンでの捕囚から解放され、故郷にもどった後の時代の言葉であるとされている。戻ることはできた故郷は荒廃しきっており、再建した神殿も過去の栄光ほど遠いものでしかなかった。約束されていたはずの栄光はさっぱり見えず、それどころか常に飢饉を恐れながら生きなければならず、人々は失望の内に自分の欲望・願望を我先に見たそうとした。そのような時代の中で語られた神の言葉は、囚われた者を解放し、困窮のうちにある者と分かち合う時こそ、光は輝くのだ、ということであった。先の見えない、恐れと不安の中で語られた神の言葉はまるで、マタイ25章で主イエスが譬えの中で語られた言葉『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』を思い起こさせるものであった。イザヤ書が告げた光はまさに主イエスにおいて、この世界へと差し込んできたのである。恐れと不安から自らが満たされ、強くなることだけを求め、弱い者を虐げ、奪い取り傷つけ合う、そのような世を、主イエスの「光」は変えてゆく。
主イエスは十字架という絶望と苦しみの中に、新しい命を示された。それは、私たち人間の目からみるならば、とてもそこに利益を、発展を、未来を見出すことが出来ないようなそのただ中に、神が新しい命への道を備えられた、その恵みと希望を私たちに伝える。主イエスの恵みの光こそが、闇に覆われたこの世界の有り様を、また私たち自身を変えてゆく神の力なのである。

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