2013年10月5日土曜日

[説教要旨]2013/09/29「耳を傾けて」ルカ16:19-31

聖霊降臨後第19主日

初めの日課 アモス 6:1a、4-7 【旧約・ 1436頁】
第二の日課 Ⅰテモテ 6:6-19 【新約・ 389頁】
福音の日課 ルカ 16:19-31 【新約・ 141頁】

 本日の譬えでは金持ちとラザロとは極めて絶妙なバランスで描かれている。もしこの物語の中心人物はどちらかを問えば、後半に向けてスポットライトがあたるのは金持ちの方であると言わざるをえないだろう。だとするならば、この譬え話を聞いている多くの者は、ラザロよりも金持ちの方に、自らを重ね合わせて聴いていたのではないだろうか。
 ルカが福音書を編纂した時代、キリスト教会はローマの属州の都市の中にその場所を移していた。そこでは、栄誉と名声を求めてより高い地位を目指し、そのために充分な財力を持つことは、人がその命を意味あるものとするために正しくふさわしい価値観であった。一方で、貧しく困窮した者は、その社会的な境遇が決して自分達自身の責任ではないにもかかわらず、犯罪の温床と見なされ、何事も成し遂げることのできなかったその命は、保護されるべき対象とは見なされなかった。
 全ての人間に平等に訪れる運命である「死」を境にして、地上での境遇と、死後の境遇が逆転するという、この譬えは、聴く者に対して、今の自らの歩みを振り返らさせる。たとえ、この地上において、正しくふさわしいものとして歩み、何事かを成し遂げたかのように思っていたとしても、自分の戸口の前にいる、苦悩し困窮する者が自分には見えていないという現実に目を向けさせるのである。そしてまた同時に、この地上においてはただ苦悩と悲嘆とを心に抱き続けるしかなかった者には、天の祝宴の喜び希望を語るのである。
 物語の後半、地上の名声を得るためではなく、戸口にいる困窮と悲嘆の内にある者のためにその富を用いることの意味を、この陰府において初めて知った金持ちの男は、ラザロを蘇らせて家族のところへ使わして欲しいと願うが、退けられる。「もしモーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」というアブラハムの言葉は、聴く者に対して、この譬えを語っておられる、主イエスご自身の十字架と復活について思い起こさせる。そしてそうであるがゆえに、この譬えは、十字架と復活の主イエスが語られていることを知りつつ聖書を読む私達に向けて語られていると言える。このたとえの締め括りの部分に至って、その言葉に耳を傾けねばならないのは、まさに今、聖書を読む私達なのである。
 痛みと絶望の極みである、十字架の死から甦られた主イエスが、聖書を通して私たちに呼びかけておられる。そうであるからこそ、この主イエスの言葉は、ただ恐ろしい陰府のイメージによって、私たちを脅迫するためのものではなく、むしろ私たちへの励ましと招きの言葉なのである。この世においては何も成し遂げることが出来ず、ただ痛みと悲しみの中で嘆くしかなかった者にとって、地上の功績は決して命の全てではないことを、死から甦られた方が教えられるからである。そして同時に、この地上における名誉と力を得ることが命の価値の全てではないことを私たちに呼びかけている。それは、どうにもならない死と向き合う中で嘆き悲しむしかない私たちに、その命へ与えられる神の約束と希望について語る言葉にほかならない。そしてそれは、私たちが今生きているこの現実の在り様を、もういちど見つめ直させ、その希望に向かう生へと私たちを導く言葉なのである。

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