2013年10月30日水曜日

[説教要旨]2013/10/27「自由と愛に生きる」ヨハネ8:31-36

宗教改革主日

初めの日課 エレミヤ 31:31-34 【旧約・ 1237頁】
第二の日課 ローマ 3:19-28 【新約・ 277頁】
福音の日課 ヨハネ 8:31-36 【新約・ 182頁】

 本日の礼拝ではルターの宗教改革の出来事を思い起こしている。世界史では1517年10月31日にルターが贖宥状販売を批判する文書「95箇条の提題」をヴィッテンベルクの城教会の扉に掲示したこととされ、この時から宗教改革が開始したとされている。しかし後の宗教改革の火種となった「神の義」の発見は、それに先立つこと数年前に起こっていた。1511年に開設間もないヴィッテンベルク大学の教員として赴任したルターは、1513年から詩編の講義を行う。しかし聖書に描かれる「義なる神」を前に、ただ裁きと罰に対する恐れを抱く事しかできなかったルターは深い苦悩に陥る。しかし、この詩編講義が行われた1513~1515年の間に、いわゆる「塔の体験」と呼ばれる、「義の神」から、「神の義」を発見するという経験をすることとなる。それは、「あなたの義によって私を解放して下さい」という詩編71編の言葉をどのように解釈するかをめぐって起こったようである。塔に引きこもって聖書を研究する中でルターは、それまでは、裁きと罰を下すためであった正しさの基準は、人を解き放ち、活かすための愛と恵みの出来事として理解したのだった。言うならばそれは、神の義とは、救いと解放をもたらされる主イエス・キリストそのものとして受け取られるようになるという経験であった。ルターを縛っていた恐れと不安、そして苦しみからの解放の体験は、世界を揺るがす出来事の序章であった。
 本日の福音書に登場する者達は、「真理はあなたがたを自由にする」と語られる主イエスに対して、「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」と問いかける。彼らにとって、自由とは彼らが既に手にしているものであり、真理とは彼らが既に知っているものであった。それに対して主イエスは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」と語られる。それは、十字架へと向かわれ、その絶望的な死から甦られた、この言葉を語られる主イエスご自身が、真理そのものであり、私たちに自由を与える存在であるからに他ならなかった。
 主イエスがご自身の弟子であることを、「わたしの言葉にとどまる」と語られる。主イエスの「言葉」、それは十字架の直前に弟子たちに語られた、「互いに愛し合いなさい」という言葉に他ならない。すなわち、人が主イエスの言葉に留まり、互いへの愛の内に生きる時、十字架へと歩まれる主イエスは常に共に歩みつづけてくださるのである。たとえこの地上において、愛に生きることがどれほど困難に見えたとしても、あるいは徒労にしか見えなかったとしても、十字架への道を歩まれる主イエスが共にいてくださるならば、それは決して失望に終わることはない。主イエスの十字架とは、この世におけるあらゆる絶望と喪失の先に、希望と解放を神が与えられた出来事に他ならないからである。そして、その出来事は人の思いと経験を超えて、ただ神の愛からの恵みとして与えられるのである。十字架へと向かう主イエス・キリストの弟子として、私たちが自由なものとして生きるということ、それは同時に、十字架によって私達に与えられている、神の愛と恵みの中を歩み続けることなのである。

0 件のコメント: