2013年10月30日水曜日

[説教要旨]2013/10/06「たとえ取るに足りなくても」ルカ17:5−10

聖霊降臨後第20主日

初めの日課    ハバクク 1:1-4、2:1-4    【旧約・ 1464頁】
第二の日課    Ⅱテモテ 1:1-14    【新約・ 391頁】
福音の日課    ルカ 17:5-10    【新約・ 142頁】

 本日の福音書の冒頭では、使徒と呼ばれるイエスの直弟子たちが「わたしどもの信仰をましてください」と主イエスに願う。使徒達はその名に恥じないように、周囲の者から尊敬され、その言葉が聞かれるに値する者となる事が出来るために、より多くの信仰を強い思いで求めたのかもしれない。それに対して主イエスが使徒達だけに向かって応えられたのか、それともそこに集まっていた弟子達全員に向かって言われたのかは不明だが、いずれにしてもそこには使徒達を含んだ弟子たちの集団、キリスト教会の原型とも言える集団が聞き手を思い浮かべることができる。主イエスは、その彼らの願いに対して、あなたがたにはからし種ほどの信仰が果たしてあるだろうか、と肩透かしを喰らわせる。
 主イエスはさらに主人と奴隷の譬え話を語られる。今日の社会では、奴隷制は倫理的・道徳に認められるものではないので、こうした社会制度が無条件で語られることに、現代人の私たちはいささか戸惑いを憶える。しかし、この譬えは奴隷制度の善悪について語っているのではなく、当時の社会の中で生きる人の日常の生活の様子を通して、より自分自身に引きつけてこの言葉を聞くための題材として受け取ることが必要である。そうであるからこそ、現代人である私たちがこの題材を理解するには、その背景についてのある程度の知識が必要となる。当時の社会で奴隷は、戦争に敗北し占領された地域の捕虜や、重税のために生ずる負債のゆえに売られた者達であった。つまり奴隷とは、人間の弱さや負い目を象徴するものであった。そしてこの譬えではその奴隷(僕・しもべ)の働きによってどれほどの実りが出たとしても、それはただ主人から与えられたものを扱っているに過ぎないことが強調される。弱さと負い目を乗り越えることなど出来ない人間が、その人生のうちでどれだけの実りをもたらしたとしても、それは与えられた命を生きる上で決定的なことではない。また私たちの為し得るものがどれほど取るに足らないものであったとしても、それもまた問題ではない。ただ命の造り主である神だけが、私たちに命を与えられるのならば、私たちがどれほどの実りを獲得したか、どれほど人からの尊敬を勝ち得たか、ということは、その人の命の価値を決定するものとはなりえない。そうではなく、私たちはただその与えられた命を懸命に生き抜くことこそが、私たちに与えられた使命なのである。そのことを、この譬えは私たちに気付かせる。
 私たち自身のうちにあるものによって、桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』というかのような、何か特別な大きなことを為すことなど不可能である。私たちに出来る事とは、ただ主イエスの言葉に信頼し、主イエスの言葉に希望をおくことに他ならない。あらゆる人の思いが敗北してしまった、あの人間としての弱さの極地である十字架の死か甦られた主イエスの言葉は、私たちに、私たちの命の進むべき道筋を、私たちの命の本当の価値を示される。そして、私たちが主イエスの言葉を信頼し、その言葉に希望を見出す時、私たちは、自分自身の背負う様々な敗北、失敗、負い目から赦されて生きることが出来るのである。

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