2013年10月30日水曜日

[説教要旨]2013/10/20「絶えず祈るためにて」ルカ18:1-8

聖霊降臨後第22主日

初めの日課 創世記 32:23-32 【旧約・ 56頁】
第二の日課 Ⅱテモテ 3:14-4:5 【新約・ 394頁】
福音の日課 ルカ 18:1-8 【新約・ 143頁】

 絶えず「祈る」こと。それは現代に生きる私たちの信仰生活においても、私たちがキリスト者でありつづけるために非常に大きな意味を持っている。しかし、同時に、そこには私たちがどこまで祈ることができるのか、どこまで祈りつづければ、ふさわしい者とされるのか、それは測り、評価することができるのか、という問いかけもまた常につきまとっている。
 本日の福音書の場面は、弟子と論敵とを前にして17章の終わりで主イエスは神の国の到来について語られたその続きの場面となっている。「神の国はいつ来るのか」という論敵から問いかけられ、主イエスは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と答えられる。たとえ人の目には何の変化も無いように見える中にも、実は神の国は「ある」こと、そしてそれは特定の場所や時代に限定されるものではないことを教えられる。そしてこの「神の国」とともに人が生きるために「気を落とさずに祈らなければならない」ことを、本日の譬えを通して語られる。
 本日の譬えに登場する「やもめ」は、古代の地中海世界において経済的・社会的に特に弱い立場におかれていた。言うならば「とるに足りない者」「弱い者」として社会の片隅に追いやられ、その願いも叫びも無視されることが当然とされる存在であった。さらに、このやもめの訴えを聞くべき者が、神を畏れず、人を人とも思わない、不正な裁判官であるとされることで、このやもめを取り巻く状況が絶望的であることが語られる。そうした絶望的な現実の中で、やもめが出来る事は、それがいつ実現するのかという保障はどこにも無いままにただ訴え続けることだけであった。しかし、その訴えは聞き届けられることを主イエスは語られる。
 このたとえの中では、このやもめの訴えが聞き入れられたことについて、彼女が信仰深かったからだとか、正しい人だったからとか、そうした説明は何もなされていない。彼女にあったのは、自らのその絶望的な弱さだけであった。しかし、その弱さゆえに、彼女は訴え続け、その結果として、無いはずのものとして無視される声が、取り上げられることとなる。それは私たちの生きるこの世の価値からするならば、起こりえない非常識な結論である。しかし、私たちに間に起こる神の国は、そのような非常識な逆転を引き起こす力があることを主イエスは、論敵、弟子たち、そして現代の読者である私たちにも教えられるのである。絶望の中に希望が与えられるという非常識な逆転が起こるという、その言葉が真実であることを、この旅の目的地であるエルサレムで主イエスはその十字架と復活によって示された。たとえ人がその弱さの中で悩みと悲しみの中で生きなければならなかったとしても、その苦難と悲しみの中から挙げられた祈りの声は、十字架を通して、神に届けられている。その事実こそが、私たちに与えられた信仰であり希望である。私たちは、その主イエスの十字架の出来事を互いに伝え合うことによって、キリスト者でありつづける。教会であり続けるのである。

0 件のコメント: