2013年10月30日水曜日

[説教要旨]2013/10/13「イエスのもとに戻って」ルカ17:11−19

聖霊降臨後第21主日

初めの日課 列王記下 5:1-3、7-15b 【旧約・ 583頁】
第二の日課 Ⅱテモテ 2:8-15 【新約・ 392頁】
福音の日課 ルカ 17:11-19 【新約・ 142頁】

本日の福音書の冒頭ではこれが、十字架が待ち受けている都エルサレムへの旅の途中であることが思い起こされる。十字架への旅路が始まる前、洗礼者ヨハネが弟子達を通じて「来るべき方はあなたでしょうか」と問いかけた時、主イエスは、「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(7:22-23)と応えられた。さらに十字架への旅の途上でも、悪霊の癒しについて「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ている」(11:20)と主イエスは語られる。すなわち、主イエスは福音の宣教と癒しの出来事が起こるところに神の国を来たらせるために来られたのであった。そしてその行き着く先が十字架の出来事であった。
本日の福音書では、村はずれで重い皮膚病の人々が主イエスに向かって「憐れんで下さい」と叫ぶ。彼が遠くから主イエスに叫んだのは、当時の社会では彼らはその病のゆえに差別され、共同体から排除され、人との接触を制限されていた。この叫びに主イエスは応えられるが、その様子はいささか奇妙に思われる。主イエスは既に5章でも重い皮膚病の人に触れて直接に「清くなるように」と言葉を与えている。そうであるのに、ここでは主イエスは離れたまま、また直接的な清めの言葉無しに応えられるからである。実はここから私たちは別の意味を見出すことができる。主イエスの力が働くのは、決して直接主イエスに触れることのできる、限られた時と場所のことではない。いかなる隔たりも主イエスの力を遮ることは出来ない。だからこそ、主イエスから遠く離れている私たちが今聖書を通してその言葉を聞くときもまた、そこで主イエスの力は私たちのうちに働くのである。
清められた十人のうち一人のサマリア人は自分が癒されたことを知る。「清くされた」という表現が、ここで「癒された」に変化していることは興味深い。つまりこの人は病気の治癒という外面的な出来事の背後に、もっと根源的な力が働いていること、つまり神の国が今自分のもとに到達したことを知ったのだった。まさに主イエスの言葉が伝えられるところに神の国が到達するということに他ならない。自らの内に起こったことを知り、この人はその出来事の始まりである、言葉と力の源、主イエスの元へと戻る。当時、サマリア人とユダヤ人は歴史の中で対立と憎悪を深めていた。しかし、この人はそうした地上での対立や憎悪を超えて、主イエスの元へと戻る。そのことは、この人の内に到達した神の国の力は、この地上の対立と憎悪を超えて働くものであることを示している。主イエスの元でこの人は、さらに「立ち上がりなさい」という言葉を与えられる。癒しを与える主イエスの言葉は、人を再びこの地上で立ち上がり、生き抜く力を与え、そしてさらにこの世へと派遣する力となる。主イエスの言葉こそが私たちが帰るところである。私たちは主イエスのもとへと戻り、その言葉によって癒され、満たされ、立ち上がる力を与えられ、そしてまたこの世に遣わされて行くのである。

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