2013年5月7日火曜日

[説教要旨]2013/4/28「互いに愛し合いなさい」ヨハネ13:31-35

復活節第5主日

初めの日課 使徒言行録 11:1-18 【旧約・ 234頁】
第二の日課 黙示録 21:1-6 【新約・ 477頁】
福音の日課 ヨハネ 13:31-35 【新約・ 195頁】

 本日の福音書は、夜にユダがイエスのもとを去ったところから始まる。この「夜」とはいわば人間を取り巻くこの世の闇を象徴の中へと、ユダが去ったことを印象づける。ところがその夜の闇と対照的に主イエスは「今や、人の子は栄光を受けた。」と語られる。ユダが消えていった人間を取り巻くこの世の闇の先には、その闇によってもたらされる、逮捕、拷問、十字架での処刑という悲惨な運命が主イエスを待ち受けていた。しかし、その出来事は同時に、神の栄光、光の勝利の出来事でもあるという矛盾した意味を聖書は私たちに示す。この同時には成り立たないはずの二つの事柄をつなぐものが、復活という出来事であった。復活の出来事によって、イエスの受難の出来事は全く違った意味を私たちに見せることとなる。そしてまた、この世の闇と、救いの光という二つの領域の間で、主イエスが地上に残される弟子達に「互いに愛し合いなさい」という言葉を語られたのだった。それはまさに、この世の闇を切り裂いて、その向こう側へと続く、命の光、栄光の光へと弟子達を、そしてまた私たちを導くために、主イエスが残された言葉に他ならない。
主イエスの弟子であるための奥義とは、私たち自身の知識や努力によって、私達が人間以上のものとなることでなない。むしろ、「互いに愛し愛なさい」という主イエスの言葉が実現するところにおいて、この地上に生きている、限界ある私たちは、永遠のものに満たされることができる、ということ、つまり、その言葉と共にその場におられる主イエスによって、私たちの日常が変えられてゆくということなのである。
 私たちがその日常の中で成し遂げられることが、どれほど小さく空しいものであったとしても、世間の目から見た時に、それがどれだけ不十分としか見なされないようなものであったとしても、それが「互いに愛し合いなさい」という主イエスの言葉によって押し出される時、そこには既に永遠の命の世界が開かれているのである。知識や清さを誇るための努力ではなく、主イエスの言葉に押し出され、用いられる時、不十分で不完全な私たちの業は、永遠の神の愛によって満たされるのである。私たちの魂の飢えと乾きが満たされる時、それは、私たちの日常の中に差し込む光、すなわち主イエスの言葉、新しい愛の掟によって動かされる時なのである。
 本日、復活節第5主日には、伝統的な教会の暦では「カンターテ」(歌え!)という名前がつけられている。これは、詩編98編「新しい歌を主に向かって歌え」からとられたものである。詩編はこう続く。「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって 主は救いの御業を果たされた。 主は救いを示し 恵みの御業を諸国の民の目に現し イスラエルの家に対する 慈しみとまことを御心に留められた。 地の果てまですべての人は わたしたちの神の救いの御業を見た。」
「互いに愛し合いなさい」という主イエスの言葉は、私たちがこの日常の中にあって、神の驚くべき御業、救いの出来事、神の愛の出来事を仰ぎ見つつ生きるための、まさに究極の教え、信仰の奥義に他ならない。闇の中にある私たちへと投げかけられた光、主イエスの言葉に押し出されて、神の愛のうちに歩んでゆきたい。

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