2013年5月21日火曜日

[説教要旨]2013/05/12「一つになるために」ヨハネ17:20-26

復活節第7主日

初めの日課 使徒言行録 16:16-34 【旧約・ 245頁】
第二の日課 黙示録 22:14、16-17、20-21 【新約・ 480頁】
福音の日課 ヨハネ 17:20-26 【新約・203頁】
説   教 「一つになるために」

 伝統的な教会の暦では、イースターの後の6回の主日にはそれぞれに名前がつけられており、復活節最後の主日には「エクスアウディ」、すなわち「(主よ、)聞いて下さい」と名付けられている。本日の福音書はヨハネ福音書において主イエスが神に向かって祈る、長い祈りの一部からとられている。
 ここで主イエスは将来にわたるキリスト者全体のことを憶えて「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」(21節)と祈られる。たしかに主イエスは、全ての者が一つになることを何よりも祈られる。しかし、ここでいう一つになるということは、単に形式的な一致を意味してはいない。主イエスは、ご自身と父なる神とは一つでありながら、「わたし」「あなた」そして「彼ら」というそれぞれは独立した立場・働きであることを憶えて祈られている。つまり、主イエスが語られる「一つになること」とは、全てが一色に塗りつぶされてしまい、そこに一人一人の有り様をもはや区別できなくなるような、そのような「一つ」となることではない。そのような一体性は、むしろ暴力による同化にすぎないのである。
 主イエスが祈られたのは、それぞれに異なる働き、立場、有り様、そうした違いがありつつも、そうした違いを残しつつも、もっと深いところで、一つに結ばれる、そのような在り方であった。それは、告別説教の中で繰り返し語られたように、互いに愛し合うことを通じて、主イエスの命において一つへと結ばれる、そのような在り方であった。そして、そのような在り方は、実は既に私たちに与えられているのである。主イエスは語る。「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」主イエスの栄光、それは十字架の死からの蘇り、復活の命に他ならない。つまり、主イエスの復活の命において、私たちは既に一つとなることを備えられているのである。
 しかしながら、私たちの現実に目を向けるならば、そのことは決して自明ではない。地上に生きる私たちは、様々な場面で、対立し、互いをおとしめあい、争いあうことを避けることが出来ない。けれども私たちは、そのような自分たちの現実に幻滅し、失望することは必要ない。むしろ、そのために主イエスは、この地上に聖霊を与えられると約束され、そしてまたそのことを天の父に祈られたのだった。たとえどれほど争いが激しく、対立は深く、その裂け目を超えることが不可能であるかのように見えたとしても、その裂け目を超えて、なお進んでゆく力を、主イエスは約束され、私たちのために神に祈り求めて下さるのである。
 本日はアジアキリスト教協議会(CCA)の呼びかけるアジア祈祷日でもある。本日の礼拝ではCCAが提案した祈祷文を用いられるが、そこではアジアキリスト教協議会に属する諸教会の一つ一つが憶えられる。アジアとは広く、そしてまた大きな多様性を含む地域である。そのアジアにあって、繰り返し一致を求めつつ、同時に正義と平和とへ私たちが導かれることが祈られる。一つになることとは決して皆が同じ色、同じ顔になることではない。それぞれに異なる者同士が既に命の神によって一つとされていることを知ることを通して、私たちは互いを愛し、尊敬し、支え合うことが出来るのである。

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