2013年5月7日火曜日

[説教要旨]2013/5/5「平和を与える」ヨハネ14:23-29

復活節第6主日

初めの日課 使徒言行録 16:9-15 【新約・ 245頁】
第二の日課 ヨハネの黙示録 21:10,22―22:5 【新約・ 478頁】
福音の日課 ヨハネ 14:23-29 【新約・ 197頁】

 本日の福音書は、先週の日課から引き続いて、「告別説教」と呼ばれる箇所となる。十字架の出来事が目前に迫る中、ご自分が弟子たちの前から去った後のためにこれらの言葉を語られる。そこで主イエスが語る「別離」と「喪失」とは、一般には心をかき乱し、悲しみと不安とをもたらす元凶と言えるものであり、それらをできるだけ避けることこそが平和・平安をもたらすと私たちは考えている。しか、別離と喪失とを語りながら主イエスは「わたしは、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」と語る。
 冒頭の23-24節で主イエスは、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」と語る。この短い節には肯定・否定を含めて「愛する」という語が3回も繰り返され、同時に「言葉」という語も同じように繰り返されている。つまり、私たちと主イエスと父なる神とが愛の交わりのうちにあるということと、私たちが主イエスの言葉を聞くということとは、切り離すことの出来ない事柄であることがここで語られている。
さらに本日の福音書では「弁護者」を与えるという約束が語られる。「弁護者」とは、原語では仲介者、助け手を指す言葉が用いられている。ここではこの「弁護者」「助け手」とは、神の見えない力としての「聖霊」であるとされる。私たちにとって最も身近な、弁護者であり助け主である聖霊の働きとは、私たちが日々を生きる中でぶつかる、なぜ、どうして、そうならなければならないのか、なぜ、このような中を生きなければならないのか、という問いかけに対して、聖書の言葉が、私に向けて語られた言葉として私の中で生き、私に力を与える言葉となるということである。
 主イエスが約束される平和とは、聖霊の働きによって、聖書の言葉、主イエスの言葉が生きて私たちを満たし、支えるようになること、そしてそのことによって、この世界を支配する欲望と恐怖から私達が解放され、神の愛の交わりの内に主イエスの命を生きることが出来るようになることなのである。さらに、この告別の説教の中で、主イエスは「互いに愛し合いなさい」という言葉を繰り返し語られている。この主イエスの言葉こそ、私達が神の愛の交わりのうちに生き、私達の内に主イエスの命を与えるものに他ならない。なによりもそのために、主イエスは十字架において、ご自身の命を私達に分け与えられたのだった。そして、その死からの復活の出来事によって、私達の思いと理解を超えた、平和への尽きることのない希望を与えられたのである。この尽きることのない希望こそ、全ての人が満たされ、全ての人が互いに愛し合うことのできる、そのような在りようを私達にもたらす力なのである。
 自らの充足と安定のために、互いに奪い合い、貶め合うことを止めることが出来ないこの地上の世界に私達生きている。しかし、この地上での歩みおいても、主イエスの言葉が私達のうちに生きて働く時、私達は、愛の交わりのうちに、尽きることのない希望を生きることが出来るのである。

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