2012年11月3日土曜日

[説教要旨]2012/10/21「仕えられるためではなく」マルコ10:35-45

聖霊降臨後第21主日

初めの日課 エレミヤ 31:31-34 【旧約・ 1237頁】
第二の日課 ローマ 3:19-28 【新約・ 277頁】
福音の日課 ヨハネ 8:31-36 【新約・ 182頁】

本日の福音書の直前では、主イエスの立っている道がエルサレムそして十字架へと続く道であることが語られる。弟子たちもまたエルサレムへの到着を予感しはじめた時、弟子のヤコブとヨハネの兄弟が主イエスに「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願う。主イエスの左右に並ぶということはその苦難を彼らもまた耐えねばならないことを意味していた。この願いに主イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」と答えられるが、それに対して二人はきっぱりと「できます」と答える。彼らにしてみるならば、苦難を耐えてこその栄光であり、そのためには少々の苦難など耐えてみせるという意志を見せたつもりだったのではないだろうか。それに対して主イエスは「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」と語られるのだった。
ヤコブとヨハネの兄弟は,いわば応報の論理に立って、主イエスの左右の座に自分達が座ることを願い出た。すなわち、これだけ努力し苦難に耐えたから、それに見合う評価・報酬が与えられるはずという論理である。それは、私たちが生きるこの世界においては、極めて当たり前の論理である。しかしこの応報の論理の逆が成り立つ時、それは極めて冷酷なものともなる。つまり、苦難が報いられないとするならば、それはその人の努力・忍耐が十分ではなかった、ふさわしくなかったからだ、という結論を導くからである。一方主イエスは、それはただ神だけが決められることであると語られる。その意味で主イエスは応報の論理に立っていない。応報の論理によるならば、主イエスが十字架に向かい、命を落とすことは、挫折であり失敗でしかなかった。この男の計画と準備が不十分だったからその企みは失敗し、反逆者として逮捕・処刑された。あれは挫折者・失敗者であって無意味で無価値な存在であると理解されることとなる。しかし主イエスは、その十字架によって苦難と挫折とを無意味で無価値なものではなく、その先に永遠の命へと続く道を示されたのだった。
ヤコブとヨセフの願いを耳にして腹を立てた他の弟子たちをも呼び集めて、主イエスはこの地上の権力とは異なるあり方を語られる。地上の権威とは、より強い力、高い能力を持つ者、より多くのものを持つ者が人の上に立ち、思いのままに人を動かすものである。そして動かされる側ではなく、動かす側となるために、人は投資し、努力し、今の労苦を耐え忍ぶ。それが応報の論理である。しかし、主イエスはそのような力と論理によらず、その命を全ての人のために捧げられた。世の人々に仕えられるためでなく、この世に仕えるものとして、十字架への道を歩まれた。全てを失い、全てを捧げることこそ、主イエスが歩まれた道であり、それこそが主イエスが目指された栄光であった。
エルサレムで十字架において処刑されたこの主イエスを、あらゆる不可能を超えて、神は甦えらされ、永遠の命への道を、私たちに備えられた。地上の応報の論理を超えて、ただ神のみが私たちに永遠の命への道を備えられる。そうだからこそ、私たちの為し得ることがどれだけ不十分で、不満足なものでしかなかったとしても、主イエスの十字架によって永遠の命への道は備えられているのである。

0 件のコメント: