2012年11月14日水曜日

[説教要旨]2012/11/11「死を破ることば」ヨハネ11:32-44

召天者記念礼拝

初めの日課 イザヤ 25:6-9 【旧約・ 1098頁】
第二の日課 黙示録 21:1-6b 【新約・ 477頁】
福音の日課 ヨハネ 11:32-44 【新約・ 189頁】

 本日は三鷹教会では召天者記念礼拝として集っている。天に召された者たちについて思いを向けるということは、この地上に遺されている私たちが復活と永遠の命について思いを向ける時でもある。復活と永遠の命は現代人にとっては信じがたい事柄である。たしかに私たちは復活というものを科学的に説明も証明も出来ない。しかし、私たちのうちの誰一人として、自分のこの命がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、そのことを説明も証明出来ないことも事実なのである。私たちが説明し証明しうることは限られたものでしかない。そうした意味で、私たちが永遠の命と復活について知るということは知識として知ることなのではない。それは今私たちが自分は生きていること、自分が見えないつながりの中で生きていることを実感することと同じなのである。復活の命・永遠の命について知るということもまた、私たちの命が、この地上だけで終わるのではないこと、見えないつながりの内に留まりつづけることを、実感することなのである。しかしその永遠の命を私たちはこの地上で見出すことは出来ないこともまた事実である。ならば私たちは何によって私たちの命は肉体の死で終わるものではないことを実感するのだろうか。
 本日の福音書は「ラザロの復活」として知られている。ヨルダン川の向こう側で宣教活動をしておられた主イエスの元に、ラザロの兄妹であるマルタとマリアの使いの者がやってくる。使いに対して主イエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と応える。ヨハネ福音書で主イエスがご自身の「栄光」について語る時、それは主イエスご自身の十字架における処刑を指している。そうした意味で、このラザロの復活の奇跡は、主イエスの十字架への道行きへと続く出来事である。
 主イエスがラザロの元についたとき、すでにラザロは死んで墓に葬られており、マルタとマリアとは悲しみの内にあった。マルタに主イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と呼びかけられる。マルタの目の前の男が、甦りそのものである。さらに主イエスは嘆きのうちにあるマリアに呼びかけ、そして死の闇の中にいるラザロへと呼びかける。主イエスの呼びかけは、あらゆる不可能性を超えて私たちを命へと呼び戻す。甦りとは単なる知識や理論ではなく、私たちに向かって呼びかけるイエス・キリストという存在であることを聖書は語る。甦りである主イエスを信頼する時、私たちにとっての肉体的な死は、私たちを脅かし、恐れさせる決定的な力を私たちにとってもはや失っている。甦りである主イエスの呼びかけは、私たちを不安と不信と恐れによって支配されていた古い命から、恵みと喜びに満ちた新しい命へと呼び戻す。
 主イエスの十字架と復活は、私たちの目に見えない存在、目に見えない世界、私たちの手の届かない世界にこそ永遠の命があることを呼びかける。地上から多くの方々が去ってゆくことによって、永遠の命はより一層私たちにとって身近なものとなる。先に召された多くの先達者達も主イエスによって呼びかけられていることを覚えつつ、地上に遺された私たちもまた私達自身の命を生き抜いてゆきたい。

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