2012年10月19日金曜日

[説教要旨]2012/10/14「神の国に入るのは」マルコ10:17-31

聖霊降臨後第20主日

初めの日課 アモス 5:6-7、10-15 【旧約・ 1434頁】
第二の日課 ヘブライ 4:12-16 【新約・ 405頁】
福音の日課 マルコ 10:17-31 【新約・ 81頁】

 聖書の中でも富は大きな問題である。モーセの十戒では盗みや他人を貪ることが禁じられた。一方で富は神の前に正しい者に与えられる報酬としても語られる。その意味では財産は、努力の成果であるとともに、その人が正しく生きていることの証でもあった。
 本日の福音書の冒頭では、主イエスが「旅に出ようとされると」と書かれているが、文字通りには「道に出ると」という意味となる。この道とはエルサレムそして十字架へと続く道である。この道の上で主イエスのもとに一人の男が走り寄り、ひざまずいて「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と問う。旧約では人が土地を「受け継ぐ」のは神の祝福の具体的な現れであった。新約の時代には「受け継ぐ」という言葉はより広い意味を持つようになり、具体的な土地についてよりも、救い・永遠の命に与ることを象徴した。そうした意味で、この男は自らが神の国にふさわしく正しい者となるためにどうすればよいかを問いかけている。おそらくこの人には、他の誰もしらない奥義をこのイエスという人は知っているに違いないという確信があったのではないだろうか。
 しかし主イエスはただ「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と答える。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と返答するこの男を、主イエスは「見つめ、慈しんで」さらに言葉をかけられる。「慈しんで」とは「愛して」とも訳すことの出来る言葉が用いられている。一心に神の国を求めるこの男を、主イエスは「愛して」言葉を続けられる。しかし、その主イエスの言葉、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」を聞いて男は去ってしまった。
 なぜ彼は主イエスの前を去ったのか。一義的には、自分の財産が何よりも大事であったと理解するべきであろう。しかし富を全て手放すということは自らの正しさをも放棄するということでもあった。自分が努力し正しく生きてきた証を手放し、得体の知れない者たちに与えてしまうということは、彼にとって「永遠の命を受け継ぐ」こととは正反対の方向にあるように感じられたのであろう。なぜならば彼にとって、永遠の命を受け継ぐということは、自らの正しい生き方の延長にある筈であった。しかし、主イエスが告げられたのは、永遠の命は自らの正しさの証しを求める道の延長ではなく、今まさに主イエスがその上に立っている、エルサレムへと続く道、犯罪者として十字架で処刑される運命へと向かう道の先にしかないものであった。
 主イエスは「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と語られる。金持ちとは単に富を有するだけでなく、自らの正しさの証を追求する者とも解釈できよう。そうであるからこそ、弟子たちは「それでは、だれが救われるのだろうか」と驚かずにはいられなかった。しかし主イエスは弟子らを「見つめて」言われる。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」。エルサレムで十字架において処刑された主イエスを、あらゆる不可能を超えて、神は甦らされ、永遠の命への道をこの世に備えられた。自分の正しさの証を求める私たちの努力によってではなく、ただ神の愛のみが、私たちに永遠の命への道を備えられる。私たちが自分自身の正しさを手放し、ただ主イエスに従う時、神の国への道を私たちは歩むのである。

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