2012年11月3日土曜日

[説教要旨]2011/10/28「『ことば』と自由」ヨハネ8:31-36

宗教改革主日

初めの日課 エレミヤ 31:31-34 【旧約・ 1237頁】
第二の日課 ローマ 3:19-28 【新約・ 277頁】
福音の日課 ヨハネ 8:31-36 【新約・ 182頁】

 本日、10月31日の直前の日曜は、日本福音ルーテル教会では宗教改革記念主日礼拝となっている。1517年にルターがドイツ東北部で始めた宗教改革から、まもなく500年を迎えようとしており、世界でまた日本のルーテル教会でも様々な取り組みがなされている。ルターが、その葛藤の中で信仰の本質を見出したことは単に過去の出来事なのではなく、今も私たちを問いかけ続けている事柄である。
 ルターの生涯とはまさにことばと格闘し、ことばの中で神と出会うものであった。勤勉で厳格な父親の影響の元、法律の勉学にいそしむルターは、22才の夏、実家へ帰る途中落雷に会い、死の恐怖の中で「聖アンナ様、お助け下さい。私は修道士になります」という言葉を思わず口走ってしまう。自らの言葉に縛られてのその後の修道生活では、どこまで悔い改めは完全になされるのかという不安と疑念とのために、ほとんど妄想・錯乱状態になったと言われる。初めての聖餐式の司式で式文の言葉を口にする時、彼はその言葉を発する自らの不完全さ、罪の深さにただ恐れおののくしかなかった。いわば彼は自分の言葉に縛られ、苦悶の中から抜け出すことができないでいた。しかし、その苦悶の中で彼は聖書のことばと格闘を続け、人間の力によってではなく、ただ神の恵みとしてて、神のその正しさは私たちに与えられるという、信仰の本質を見出すこととなったた。ルターの語る神の恵み、それはルターが不安と疑念との葛藤の中でことばと格闘する中で見出した、自由をもたらす真理の光であった。
 そのような神のことばとの格闘は決してルターだけで終わるものではなかった。宗教改革から約400年後、ドイツのルター派神学者であり、20世紀最大の新約学者であるルドルフ・ブルトマンが登場する。新約聖書を徹底的に分析し、その文学的・宗教史的なルーツを探った人物であるが、とりわけ「新約聖書と神話論」という著作によって、キリスト教会に大論争を巻き起こした。この本でブルトマンは、新約聖書のさまざまな要素が古代の様々な宗教の神話を原型として持つことを明かにした。そして、それら神話的要素を取り除き、聖書を「非神話化」して、聖書のことばの中心的なメッセージとしての「キリストの十字架と復活」を教会は語らねばならないと主張した。既存の教会の聖書理解の伝統によらず、ただキリストの十字架と復活について語るのだというブルトマンのこの主張は、保守的な神学者から厳しい批判を受けることとなった。しかしブルトマン自身は、「徹底的な非神話化論は、律法の業によらず、信仰のみによって義とされるという、パウロ、ルター的な宣義論と並行しているのであり、むしろ、認識の領域におけるその徹底なのである」と語る。いわばそれは、宗教改革から400年隔ててルターの信仰を受け継いだブルトマンが、世俗化したこの現代社会において教会が神のことばを伝えるとは何かという厳しい問いかけの中で、ルター同様に神のことばと格闘した末にたどり着いた一つの結論であった。
 キリスト者は常に問いと試みの中に立たされ、常にキリスト者になろうと神のことばと格闘しつづける存在でしかない。しかし、それは同時に、それは神のことばを通して示される、十字架と復活の恵みの中を歩み続けることなのである。その意味で今なお私たちは宗教改革の歴史の中を歩んでいるのである。

0 件のコメント: