2012年4月16日月曜日

[説教要旨]2012/3/18「一人も滅びることなく」ヨハネ3:14−21

四旬節第4主日

初めの日課 民数記 21:4−9 【旧約・ 249頁】
第二の日課 エフェソ 2:1−10 【新約・ 353頁】
福音の日課 ヨハネ 3:14−21 【新約・ 167頁】

 私たちの生きるこの世界において、正しさとは「私の主張する正しさ」でしかない。そのような「正しさ」を求めつづける時、私たちは、分断と対立を生み出すだけの孤独で決して満たされることのない、ただ暗い夜の闇の中にひとりぽつんと取り残された存在であることを思い知ることとなる。
 本日の福音書の日課は直前の箇所には、夜の闇の中でユダヤの律法の教師であるニコデモという人物が主イエスのもとを訪ねる場面が描かれている。彼が主イエスを訪ねたのは、単に好奇心からだけではなく、自分に欠けている何かをこのイエスという人物に求めたからであった。しかしながら、この二人の会話はまるでかみあわない。敢えて言うならば、ニコデモは自分の価値観、自分のがこれまで生きてきた世の常識、優先順位の延長上に、自分の救いと解放を見ようとしているのである。
 本日の福音書では、このニコデモとの対話に続く、主イエスの言葉が語られる。新約聖書では、この私たちの生きる地上の世界を指して「世」という言葉が度々用いられている。この語は新約全体で180回以上用いられているが、その半数近い80回近くがヨハネ福音書の中で語られている。その多くは非常に否定的な意味で用いられている。つまり、主イエスによって示された救い、永遠の命と対局にあるものとして、この地上の世界とその価値観の中で生きる私たち自身が語られている。しかしそれにもかかわらず、本日の福音書の中で「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と主イエスは語られる。神の国と対立するものとして、相容れないものとして「この世」が語られているにもかかわらず、それは神の愛の対象であり、神のみ旨はこの「世」を裁くことではなく救うことであると、主イエスは語られる。主イエスは、人の価値基準において正しい者だけのために十字架でその命を与えられたのではなかった。主イエスの十字架は、この世の闇の中でうめくあらゆる者に対して、新しい命を、光を与えるためのものであった。ここにまさに、私たち、地上の価値観、自分と同じ意見・立場のものを正しいとして、そうでないものを誤った正しくないものとして排斥する、そのような私たちの限界を超えた、神の愛の姿がある。私たちの正しさいかんに関わらず、主イエスの十字架を通して私たちを神はその結びつき、親しき交わりの中に呼び返して下さっている。この交わりは、主イエスがその十字架で私たちのために与えられた新しい命の故に実現する、憐れみ豊かな神との親しき交わりである。それはまた私たち一人一人が、互いに赦し合い、慰め励まし合う、信頼の交わりのなかに招き入れられることをもたらす。その交わりは、私たちをして、むしろこの世の現実に目を向け、私たちを必要とする兄弟姉妹を見出し、赦しと慰めの交わりを造り上げることへと私たちを促していくのである。

0 件のコメント: