2012年4月16日月曜日

[説教要旨]2012/4/1「イエスは大声で叫ばれた」マルコ15:1−47

四旬節第6主日

初めの日課 イザヤ 50:4−9a 【旧約・ 1145頁】
第二の日課 フィリピ 2:5−11 【新約・ 363頁】
福音の日課 マルコ 15:1−47 【新約・ 94頁】

 本日の福音書の日課では、罪無きはずの主イエスが犯罪者として扱われ、見せしめ刑である十字架につけられる様子が延々と語られる。十字架は反逆者に対する見せしめの刑罰であった。十字架に磔になるということ、それはこのイエスという人物の歩みを全て否定し、そのすべての努力が潰えてしまったということを世に知らしめるための行為であった。この十字架を見上げて、「救い主」である筈の者がなぜここで磔になどなるのかと嘲る。この嘲りと罵りのなかで、主イエスは大声で悲痛な叫びを上げられる。
 主イエスは十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶ。たしかに誰の目から見ても、十字架に磔にされたその悲惨な姿は、神に見捨てられた状態としか映らない。しかしその叫びは私たちには奇妙な出来事であるように思える。救い主と言われる者が、なぜ苦痛に耐えられないのか。なぜ、そんな惨めな姿をさらすのか。もっと雄々しく、気高く、その最後を迎えられないのか。そのようにすら思うかも知れない。しかし、主イエスが大声を出して息を引き取られると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。この垂れ幕は、年に一度だけ神殿の最高権威であった大祭司だけが足を踏み入れることの出来た至聖所、つまり最も聖なる場所を人々から覆い隠すためにかけられたものであった。この幕を悲嘆の叫びを大声で挙げられた主イエスの死が引き裂いたのである。主イエスのその悲惨な十字架の死は、人々から隔てられ覆い隠されていた最も聖なるものをこの世に対して明らかとし、すべての人に主なる神との親しき交わりを可能とする出来事であった。それはまさに新しい契約、つまり全ての人に聖なる救いが、新しい命に生きる道が開かれたしるしであった。
 私たちは、主イエスの叫びは私たち自身の叫びであるということに気付く。救い主とは、遠いどこかから突然やってきて困ったことを片付けてくれるスーパーマンなのではない。私たちと同じ地平を生き、同じ苦しみを味わい、私たちと同じ嘆きの声を上げる、その方こそが私たちに最も近い存在であること、そして私たちをこの世の嘆きと悲しみ、恐れと絶望から救い出されるのは、私たちの苦しみに最も近づき、自らの命を私たちのために与えられた方であることを知る。
 主イエスは、ご自身を見捨てたとしてか思えない神に向かって「わが神、わが神」と呼びかけられる。それは、苦難と絶望を前に沈黙しているように見える神の背後に、神の聖なる救いの働きが隠されていることを確信する姿であった。その確信の中で神に向けられた「なぜ」という問いかけは、もはや悲嘆と絶望の表現なのではなく、むしろ神の救いの業を待ち望む祈りであり、希望の言葉である。主なる神はこの主イエスの叫びに応えて、聖なるものを覆い隠してた神殿の垂れ幕を引き裂かれたのだった。大声で叫び息を引き取られた主イエスは、その十字架の死に留まられず、やがてその死から甦り、聖なる救いの道、新しい命の道を私たちに示された。だからこそ主イエスの死は私たちを救う聖なる出来事なのである。

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