2012年4月16日月曜日

[説教要旨]2012/3/25「一粒の麦が…」ヨハネ12:20-33

四旬節第5主日

初めの日課 エレミヤ 31:31-34 【旧約・ 1237頁】
第二の日課 ヘブライ 5:5-10 【新約・ 406頁】
福音の日課 ヨハネ 12:20-33 【新約・ 192頁】

私たちがどれほど願おうとも春の訪れを早めることも遅くすることもできず、ただその時が来るのを待つことしか出来ない。時を待つということは、私たちがこの世界を自分の思うままに操ることは出来ないということを受け入れることに他ならない。近代文明はそのような時の過ごし方を否定し、時間を区切り整理し効率的で生産的な時間を求め続けてきた。しかしその結果引き起こされたのは、利益を奪い合うことで起こる世界戦争であり、人間を生産性・効率性で判別し不要とされた者、意見・立場の異なる者を抹殺することであり、あるいは今の利益のために地球環境を傷つけ未来の世代への大きな負債を残すこと、いわば人間の闇を生み出すことであった。この闇の中で私たちはどこに光を見出すのか。その光はいつ私たちのもとへとやってくるのか。
本日の福音書には、過越祭にあたって主イエスが都エルサレムに迎え入れられた直後に、ギリシア人達が主イエスのもとを訪ねる場面が描かれている。各地で奇跡をなした男を見てみたいと訪ねてきたギリシア人達に、主イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」と語られる。「栄光を受ける時が来た」というからには、どれほど偉大な影響力を発揮して、世の中を自分達の都合の良いように変えてくれるのかと期待しただろう。しかし主イエスは「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである」と続ける。「地に落ちて死ぬ」ことがなぜ「栄光の時」なのか。栄光の時というならば、人々の期待を着実に実現し強く大きくなっていく時を思い描いていたのではないだろうか。しかし、主イエスが語られる時は人間が期待する栄光の時とはおよそかけ離れたものであった。それはまさに、神によって備えられた栄光の時、主イエスが十字架へとかかるためにエルサレムを訪れる時が来たことを語られたのだった。それは失うことを受け入れる時、挫折と絶望を受け入れる時であった。
しかしさらに主イエスは「だが死ねば多くの実を結ぶ」と語る。失うことを超えてこそ、多くの実が結ばれる、人間の期待と思いを越えたその様な時がまさに今やってくると主イエスは語られる。一粒の麦が死ぬということは、麦がそのもともとの形を失ってしまうということである。たしかに、麦は土に落ちると、もとの形を失ってしまう。しかしそれによって初めて、季節が巡り麦は実りをもたらすこととなる。今ある形が失われること、今自分が知っている価値が失われること、それは私たちの目から見るならば損失・無価値なことである。しかしその先に豊かな実りをもたらす時が来るということを主イエスは語られる。そしてその時は、主イエスが都エルサレムで十字架において処刑され、その死から甦られたことによって私たちのもとにやって来るのである。
偉大な力を見たいと願ったギリシア人達は、エルサレムで主イエスの十字架を見上げることとなった。私たちも今、主イエスの十字架を見上げて復活を待ち望む「時」を過ごしている。私たちの計画や思い、そうしたものをすべて超えた希望の光に満ちたその時が私たちのもとにやってくるとき、その光は私たちを取り囲む闇を打ち負かされる。

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