2012年4月16日月曜日

[説教要旨]2012/4/8「わたしは主を見ました」ヨハネ20:1−18

復活祭

初めの日課 イザヤ 25:6−9 【旧約・ 1098頁】
第二の日課 1コリント 15:1−11 【新約・ 320頁】
福音の日課 ヨハネ 20:1−18 【新約・ 209頁】

 主イエスの十字架の死の後の日曜の朝、マグダラのマリアは主イエスの墓を訪れるが、墓穴の中に主イエスの亡骸を見つけ出すことは出来なかった。マリヤは悲嘆に暮れ、空の墓について残りの弟子達に訴える。空の墓とは本来主イエスが死を打ち破り、復活されたことの徴であったが、初めにそれを見た時、彼女にとってそれは喪失に追い打ちをかける出来事でしかなかった。彼女が求めていたものは、彼女の元から失われてしまった主イエスの存在であった。そのような中で主イエスに呼びかけられた時、マリヤには復活の主イエスがその傍らにおられることに気付くことが出来ない。そのマリヤの姿は、聖書の語る復活とは、永遠の命とは何かを、逆説的に私たちに示している。復活・永遠の命とは、喪失したものが元通りに復元することや、今あるものが無制限に存続することではない。
 主イエスの復活・新しい永遠の命は主が十字架への道を逸れることなく歩まれたことによって実現した。仲間からも見捨てられ、無数の傷を受け、全てを失い、全く何もないところから、新しい命の出来事は始まった。それは無の闇からこの世を作られた、私たちの命の造り主である主なる神の創造の働きに他ならない。
 本日の箇所で、マリアは2回振り返る。1度目に単に体の向きを変えただけであった時、マリアは復活の主がそこにおられることを認めることは出来ない。しかし主イエスによってその名を呼ばれたマリヤは、2度目には主イエスに向き直り、そこに復活の主がおられることを知る。それは、ただ体の向きを変えたというではない。闇の中に光を生み出された神の創造の働きが、マリアの内にもまた新しい命を創り出し、そのことがマリアをして、その生の歩みの方向を変えさせたのである。その出来事は、マリアの歩みを180度変える。マリヤはもはや失われたものを嘆き訴えるためではなく、「わたしは主を見ました」と、その新しい命を始まりを告げるために仲間のところへ戻ってゆく。
 「わたしは主を見ました」という言葉は、ただの第三者が語るニュースではない。主イエスに呼びかけられ、主イエスに向き直り、復活の主イエスと出会ったものの言葉である。いわばそれは、失われたことの悲しみから、呼び出され、向き直り、新しい命の道を歩み出した者の言葉なのである。
 私たちは毎年、受難と復活を憶える時を繰り返す。それは、私たち自身が主イエスの死と共に、復活の命、新しい命に与ることを憶えるためである。嘆きのただ中にあるマリアは、主に呼びかけられて、復活の主へと向き直る。そして復活の主イエスに出会った喜びを他者に告げるために、押し出されてゆくのである。20世紀のドイツの神学者、D.ボンヘッファーは「イエス・キリストの復活は、被造物に対する神の肯定である」と語った。主イエスの復活、それは神によって創られた全ての命に対する祝福の出来事なのである。だからこそ、復活の主からの呼びかけは、失われたもの、不足していることを嘆くのではなく、今与えられている命への感謝と喜びを、他者と分かち合う生への招きなのである。

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