2011年2月3日木曜日

[説教要旨]2011/1/23「光の後を追って」マタイ4:18-25

顕現節第4主日

初めの日課 イザヤ 43:10-13 【旧約・ 1131頁】
第二の日課 1コリント 1:26-31 【新約・ 300頁】
福音の日課 マタイ 4:18-25 【新約・ 5頁】

「天の国は近づいた」と語られた主イエスは、その後には「ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」。本日の福音書は、これらの活動の間に、四人の漁師を弟子にする物語を語っている。主イエスが神の国の実現を語ることは、教えを宣べ、病を癒すことと切り離す事が出来ないものであった。そしてまた、そのことは「弟子を召し出す」ことと密接に結びついていることを、本日の物語は私たちに語る。この後、弟子たちは主イエスと共に各地を回り、そしてやがて主イエスの十字架と復活の出来事を経て、弟子たちは全ての民を弟子とするために派遣される。そしてマタイ福音書は「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」という言葉で締めくくられるのである。その意味で、主イエスの物語は、同時に主イエスによって弟子とされた者の物語でもある。
むろん主イエスに限らず、古代では律法学者も弟子を従えていた。しかし通常は弟子になりたい者が、師となる人物のところを訪ね、弟子入りを願うものであった。しかし、主イエスの場合は逆に、師が弟子を呼び出しに来るのである。マタイ福音書が描き出す、主イエスと弟子たちの関係、それは主イエスの側の主体的な関わりによって創り出されるものなのである。
そしてまた、ある者が主イエスの弟子とされたのは、特別に恵まれた環境の中にいたからでも、何らかの異能があったからでもなかった。彼らはいわば普通の、むしろ社会の下層に属する民衆であった。彼らが主イエスの弟子となったのは、彼らの能力や資産がそれにふさわしいものであったからではないのである。むしろ彼らは、主イエスに呼び出され、主イエスと共に歩み、そして主イエスの言葉に押し出されて、主イエスと共に世界へと派遣されるからこそ、弟子であることができるのである。人間が主イエスの弟子である事、その根拠は、人間としての能力や育ちの良さなどではなく、主イエスから投げかけられる声に動かされることなのである。
降誕から顕現の出来事は光を主題の一つとしている。主イエスが弟子たちに投げかけられた言葉、それは彼らの生の中に投げかけられた光であった。かつて、東方の学者たちを旅立たせた光は、今度はガリラヤの漁師達を動かし、彼らはその光の後を追い始める。その歩みは決して平坦なものではなく、主イエスの十字架の出来事において、その光は闇に覆われ消え去ってしまったかに思われたに違いない。しかし復活の出来事を通して、自分達に投げかけられた光の本当の意味を知るのである。それは、私たちを覆う闇は、決して究極の力、最後のものではないということ、真に究極のもの、それは主イエスを通して投げかけられた神の国の光であることであった。彼らはやがて、その光を伝えるものとなる。その光は、今や全ての民に対して投げかけられている。

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