2011年2月3日木曜日

[説教要旨]2011/1/30「地の塩、世の光」マタイ5:13-16

顕現節第5主日

初めの日課 イザヤ 58:1-10 【旧約・ 1156頁】
第二の日課 1コリント 2:1-5 【新約・ 300頁】
福音の日課 マタイ 5:13-16 【新約・ 6頁】

降誕から顕現にいたる教会の暦は光を主題の一つとして、「世の光、神の子キリスト」のこの世界への到来ということが語られてきた。神の光が、この世界に与えられ、この世界を満たしていく。それはまさに私達の間に与えられた福音(良い知らせ)の出来事に他ならない。しかし、本日の福音書では主イエスが弟子たちにそして群衆へと投げかけられた言葉は、「あなたがたは世の光である」という言葉であった。
本日の福音書は、5章から始まる「山上の説教」の中で有名な8つの祝福に続く文脈で語られている。大勢の群衆が既に主イエスに従っていたことが5章の直前で語られた直後、弟子たちが主イエスの近くに寄ってきたところで、主イエスはこの祝福の言葉をもって語り始められる。いわば主イエスを中心に、弟子たちが集い、そしてさらにその背後には大勢の群衆がいたことが、そこでは考えられている。その意味で、ここで語られている、近くの弟子たちに向かって語られた言葉は、さらに主イエスに従う者全体に対して向けられていると言える。
主イエスは、「地の塩」「世の光」になるべきであるとか、「地の塩」「世の光」にならなければ、祝福を受けるに値しないという言い方をしていない。主イエスは、ご自身について「わたしは世の光である」と語られるのと同じように、実に率直に「あなたがたは・・である」と語られる。「わたしは世の光である」という主イエスの言葉、それは闇に覆われたこの世界に射し込み、世界を変える力であった。その同じ言葉が、この世界の中で自分自身の弱さに呻き苦しむ私達に対して投げかけられる。私達は、この世界が、なによりも自分自身が闇に閉ざされていること、その闇を自分の力で打ち破ることが出来ないことを知っており、そしてその事実に失望し絶望している。しかし、主イエスは、そしてその言葉は、そのような世界と私達の有り様を変える力なのである。それはなによりも、主イエスがご自身の十字架と復活によって世界を変えられたのである。だからこそ、「悲しむ人々は、幸いである。」主イエスのこの言葉を聞くとき、私達はもはや悲しまなくて良いのである。そして、さらに主イエスは語られる。「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」。主イエスの言葉は、この世界と私達の存在を変えてゆくのである。
主イエスは「あなたは」ではなく「あなたがたは」と語られる。それは、祝福を受け、「地の塩」「世の光」であるものは、もはや孤独な存在ではないことを私達に告げている。主イエスの言葉は、私達をひとつにする。それこそまさに、神の愛がこの地上に実現してゆく、その出来事が私達の間に起こる姿なのである。

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