2011年2月15日火曜日

[説教要旨]2011/2/13「与え、祈り、愛する」マタイ5:38-48

顕現節第7主日

初めの日課  レビ記 19:17-18 【旧約・ 192頁】
第二の日課 1コリント 3:10-23 【新約・ 302頁】
福音の日課 マタイ 5:38-48 【新約・ 8頁】

 本日の福音書は、引き続き「山上の説教」と呼ばれているマタイ5-7章の部分が取り上げられている。もし私たちが、その語られる言葉を、単なる文字面だけをおって理解するならば、それは本来の主イエスの思いとは異なるものとなってしまうだろう。そもそも、そこに書かれたことを言葉通り遵守することは、人間の日常の生活ではおよそ不可能なことばかりである。しかしここで語られている事柄の共通点を探るならば、そこではそのいずれもが、「(あなたがたも聞いているとおり、)〜と命じられている。しかし、わたしは言っておく」という主イエスの言葉によって語られている。「あなたがたも聞いているとおり」に続いて語られる、現に運用されている掟は、いずれも決して間違っているとは思えないものばかりである。むしろ、その後の「しかし、わたしは言っておく」に続く主イエスの教えの方が、私達の常識や正しさというものの基準を無視したようなとんでもないものばかりである。だからこそ、この主イエスの言葉をどのように受け取るべきか、どのように守ればよいのか、ということが教会の歴史の中で問題となってきたのである。むしろ、この主イエスの「しかし」という言葉、それは、私たち自身が信じている常識や正義に対して、その常識や正義を超える何かを示そうとしているのである。それは、私達人間が創り上げてしまっている思いこみ、いつのまにか人を裁いてしまう私たちの思いに対して発せられている。「たしかにあなたはそのように教えられ、そのように考えている。しかし、わたしは言っておく」主イエスはそう語られている。実に、この「しかし」において、私達が生きているこの日常の中では疑いもなく用いられている「正義」「正しさ」というものに対して、他ならならぬ主イエスによって、神の「正しさ」「正義」が示されているのである。
 罪無くして、しかし罪人として裁かれ、十字架において処刑され、しかしその死から蘇られた、主イエス。主イエスの歩みはまさに無数の「しかし」を貫いて、その向こう側にある神の愛と憐れみに満ちた領域への道筋を私達に開いているのである。私達は、たしかに不完全で、自らの正しさによって人を裁き、断じ、人と人との間に隔ての壁を作り上げてしまう。しかし、十字架の死から甦られた主イエスの言葉は、私達のそうした現実を揺るがし、穴をうがち、神の愛と憐れみによって私達を満たし、私達に、与え、愛し、祈ることを可能とさせるのである。

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