2011年2月23日水曜日

[説教要旨]2011/02/20「野の花、空の鳥」マタイ6:24−34

顕現節第8主日

初めの日課 イザヤ 49:13−18 【旧約・1143頁】
第二の日課 1コリント 4:1−13 【新約・ 303頁】
福音の日課 マタイ 6:24−34 【新約・ 10頁】

 本日の福音書では、先週から続いて、主イエスの「山上の説教」が取り上げられる。主イエスは、身近な弟子たちを集めてこれらの言葉を語られている。しかしそれは限られた弟子たちだけに向けられているのではなく、その背後に主イエスに従おうとする多くの民衆の存在が示唆されている。その意味で、山上の説教は、全てのキリスト者に対して語られた言葉でもある。
 「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(24節)という言葉を聞く時、私達はその正しさをと同時に困難さを思い起こさずにはいられない。たしかに私達は、富への執着が人間にとってどれほど恐ろしい不正、対立そして憎悪、いわば人間の罪と闇を生み出すかということを実体験として知っている。だからこそ、そのような罪と闇の原因としての「富」と、「神」とが対比されていることに率直に納得することができる。罪と分裂をもたらす「富」に対して、神はむしろ公正さ、寛容そして和解とをもたらされることを私達は思い起こすからである。しかし同時に、富無しにこの社会の中を生きていくことは、ほとんど不可能であることもまた私達は実感として理解している。現実の生活においては、富無しに健康で安全な日々を生きることは出来ないからである。したがって、「神と富とに仕えることはできない」という言葉を前にする時私達は、公正さとより道徳的な生き方の実践と引き替えに、自分自身の生命の存続を断念しなければならないという決断を迫られているように感じるのである。
 しかし、実は主イエスは、そのような事を語られているわけではないことが、次の段落を読み進むことで明らかとなる。なぜならば、空の鳥も、野の花も、自分の生命を断念などしていないからである。むしろ、空の鳥も野の花も、自らの命を最大限謳歌しているのである。野の花は、イスラエルの歴史の中でもっとも栄えた王の一人であるソロモンと比較してすら、自らの命を咲き誇っていることが比喩的に語られるのである。したがって、「富」によって指し示されているものは、私達が自分自身の命を喜び生きることなのではない。神によって与えられた命は無価値であると、主イエスは語ってはいない。そうであるならば、「神」に対立するところの「富」とは何なのだろうか。
 「富」とはいわば「生産性」の所産である。「生産性」とは、人の命を、その能力、資産などの基準によって価値を現すことでもある。そしてまた、あらゆる偶然性や突発性を排除して、計画通りに全てをコントロールできることに大きな価値を見出すことでもある。その意味で、富を人生における第一の価値があるものとして求めるということ、それは、人をその生産性によってランク付けし、全てを自らの思い通りにコントロールしようとする姿なのである。そして、それはまさに、この世に命を与え、限りのない恵みと憐れみとを注ぎ続ける神の姿と対極をなすものであった。神は、この世界を作られた時、その全てをみて「極めて良かった」とされた。そして、その世の救いのために、ひとり子を遣わされた。そして、そのひとり子主イエスは、あらゆる絶望と挫折の極みである十字架の死へと向かわれ、その死の向こうにある永遠の命をその復活によって示されたのであった。
 富によって象徴されるもの、それは私達に与えられた命を、私達が喜び感謝することを妨げるものであった。「思い悩むな」と主イエスは語られる。私達には、私達の思いを遙かに超えた、神の愛が注がれているのである。

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