2011年2月15日火曜日

[説教要旨]2011/2/6「ひとつの体、多くの部分」1コリント12:27

顕現節第6主日・定期教会総会

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」
(1コリント12:27)
[2011年三鷹教会主題聖句]

 人間社会における全体と個との一致の比喩としての「からだ」は、古代地中海世界ではストア派の哲学者によって好んで用いられ、広く知られるようになっていた。しかししばしばそれは、階級社会を維持し、下層に属する者が、上層に属するものに従属し、反逆することなくおとなしくその地位に留まることによって、社会の常識と秩序を維持することを意図した。いわばそこで語られる「からだ」とは人間社会の縮図であり、強い力を持つ者が弱い者を支配することを正当化するために用いられていた。それに対してパウロは、同じ「からだ」でありながら、「キリスト」による一致を語る。たしかに信仰者の群れもまた、この地上における人間の集団であり、「からだ」として全体と個とが一致しなくてはならない。しかし、それは単なる「からだ」であるだけでなく、「キリストの体」であると語るのである。そこには強い者も弱い者も、持てる者も持たざる者もいながら、その多様性をもったままでありながら互いにかけがえのない価値を持つものとして、一つの体として組み合わされる姿である。
 実に、教会がキリストの体となるためには、そこに集う者の人間的な能力の高さや家柄や財産などが問題なのではない。あるいは異言といった霊的な賜物ですら必須のものではない。もちろんそれぞれには様々な賜物が与えられている。しかしそこで本当に必要とされているもの、それは「愛」であるとパウロは続く13章で語る。「愛」こそが、この地上において私達を引き裂き、支配と従属の関係の中へと押しやる力に対抗できる力なのである。
 しかし、パウロの語る「愛」を私という一人の人間の愛する意志として受け取るならば、それはおよそ自分には実現不可能なことにしか思われない。だがパウロが語る愛は、単に人間が「・・・であらねばならない」と思い、それを実現しようとする意志を指してはいない。むしろそこで問題となるのは、神の愛なのである。神は、この世を愛された。だからこそ、愛するひとり子をこの地上に与えられ、そしてその十字架とその死からの復活によって、私たちを取り囲み引き裂こうとするこの世の力に打ち勝たれたのであった。
 教会がキリストの体であるということ、それは教会につらなる私達が、十字架につけられ、その死からよみがえられたキリストと結びあわされることに他ならない。それこそまさに、この地上で私達を引き裂く様々な力に優る、神の愛が私達を満たし、慰め、そして押し出す力なのである。

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