2010年9月2日木曜日

[説教要旨]2010/8/29「高ぶる者は低くされ」ルカ14:7-14

聖霊降臨後第15主日

初めの日課 エレミヤ 9:22-23 【旧約・ 1194頁】
第二の日課 ヘブライ 13:1-8 【新約・ 418頁】
福音の日課 ルカ 14:7-14 【新約・ 136頁】

本日の福音書に先立つ14:1で、主イエスがファリサイ派の議員の家で食卓を囲んでいることが語られている。そして、本日の福音書において、招かれた客達が席順を気にしている様子を見て、招待客らに対して、主イエスは「たとえ」を語られる。本日の福音書の展開は私たちは大いに戸惑わせる。前半は、最初は一般的な行儀作法のみかけをとっており、この作法に従うことは、それほど奇異なこととは思われない。しかしながら、話は突然も「高ぶる」「へりくだる」という信仰的事柄が問題となるからである。そしてさらに、今度は誰が招かれるべきか、ということが問題になるが、そこでは一般常識を大きく踏み越えてゆくことになるからである。しかもそれは「正しい者達が復活する時」つまり世の終わりの時における報いの出来事と関連づけられている。日常的な会席での行儀作法から、終末の祝福への飛躍に、読者である私たちは思わず目がくらんでしまう。
いわばここで主イエスは、私たちの日常的な生活の中で、キリスト者は何をもって理想とするか、なにがキリスト者にとっての「面目」であると考えるのかということを問いかけ、またその答えを示唆しているのである。この箇所で、上席を選ぼうとした人々は、一体何を理想とし、なにを「面目」として求めたのであろうか。宴席の上席に座すること、それは一つには招待主との関係の緊密さ・近さを挙げることが出来るであろう。したがって、より上席を占めること、それはいわば友情と信頼の深さの徴であった。また当然のことながら、社会的な地位の高さが問題となった。古代社会において、社会的地位の高さには属する家柄の古さが大いに影響を与えた。そして家柄の古さとは、その人物が伝統的な価値観に対してより忠実であり純粋であることの証しと考えられたのである。友情や信頼の深さ、あるいは伝統的価値への忠実さや純粋さ。これらはむしろ、誰にとっても好ましいものであるように思われるし、それを求めていくことはむしろ推奨されることであると私たちはむしろ考える。しかし、主イエスはそうした態度に対して「だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる」と語られるのである。むしろそうした「好ましい」と思われるような人々、すなわち友人、兄弟、親類、あるいは地元の裕福な名士ではなく、私たちの日常から遠ざけられている人々、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人こそが招かれるべきであると主イエスは語られ、さらにそれは祝福されるべき神の国における救いの出来事の象徴としてされるのである。
それはいわば、救いの出来事はどこで起こるのか、神の国はどこに成り立つのかということが、この譬えと警告を通して語られているのである。私たちが神の国の宴席に与ることが出来るかどうかは、目に見える形での近さや親密さ、忠実さや純粋に基づくのではない。むしろ、私たちの日常から遠ざけられているもの、私たちの目から見えなくされているもの、そうしたものの場所、すなわち社会的な価値観の外側にこそ、神の国は成り立つことを聖書は伝えている。それはなによりも、主イエスの十字架の出来事によって最も明確に示された。十字架という恥じと悲惨さの極みを通して、主イエスは栄光を受けられた。十字架の出来事は、私たちに目に見えない、けれども真の栄誉を示すのである。

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