2010年9月29日水曜日

[説教要旨]2010/09/26「私を憐れんでください」ルカ16:19-31

聖霊降臨後第18主日

初めの日課 アモス 6:1-7 【旧約・ 1436頁】
第二の日課 1テモテ 6:2c-19 【新約・ 389頁】
福音の日課 ルカ 16:19-31 【新約・ 141頁】

 本日の福音書のたとえは内容から見て、大きく二つの部分に分けることができる。前半の逆転劇は、これまでの多くの主イエスのたとえ話がそうであるように、大変衝撃的な展開で私達を動揺させる。それは12:21「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」という言葉で締めくくられている、いわゆる「愚かな金持ちのたとえ」を聞く者に思い起こさせる。身分の高低、資産の有無、能力・権力の強弱に関係なく、死は全ての人間に平等に訪れる運命である。人はその運命を避けることは不可能である。その避けることの出来ない死を境にして、地上での境遇と、死後の境遇が逆転するというその物語を聞く時、人はまるで目覚ましによって夢から覚めたかのように、今の自らの歩みを振り返らずにはいられなくなる。富というものが自分の戸口の前にいる貧しい者を見えなくさせるという現実に、このたとえは強制的に目を醒まさせるのである。
 物語の後半では、ラザロを蘇らせて家族のところへ使わして欲しいという金持ちの男の願いは退けられることが語られる。「もしモーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」というアブラハムの言葉は、やはり強制的に主イエスの十字架と復活について思い起こさせる。ここで私達は、聖書の物語の登場人物と、私達との違いに気付かされる。本日の箇所の前後に登場する弟子たち、あるいは主イエスの敵対者達、彼らの誰一人として、主イエスが死から蘇られた方であることを知らない。しかし、私達は知っているのである。復活の主イエスが弟子たちに現れ、ご自身の十字架と復活について、モーセと預言者を通して説明されたことを知っているのである。その意味で、譬えを通して語られる主イエスの言葉は、まさに今聖書を読む私達に向けて語られているのである。弟子たちと敵対者たちに語られたこのたとえを聞いていた私達は、その締め括りの部分に至って、強制的に目を覚まさせられているのは、他ならぬ私達であることに気付くのである。
 私達は毎週の礼拝で、あるいは日々の生活の中で、「主の祈り」を祈る。主の祈りでは「我らに日ごとの糧を今日も与えたまえ」「わたしたちに今日もこの日の糧を与えて下さい」と祈る。それが「私に」ではなく「私たちに」であることは注目されるべきである。日ごとの糧を受けるのは「私」だけなのではなく「私たち」でなければならないのである。神の国が来るということ、神の御心がこの地上に実現するということ、それはただ「私」だけが満たされるのではなく、日ごとの糧を分かち合うことを通して「私達」へと変えられることと切り離すことは出来ないのである。神の国の福音、それは主イエスの十字架と復活によって私達の前に明らかにされた。だからこそ、その十字架を見上げる私は、日々の糧を分かち合うことの出来る「私達」へと変えられるのである。

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