2010年9月22日水曜日

[説教要旨]2010/09/19「本当に価値あるもの」ルカ16:1-13

聖霊降臨後第17主日

初めの日課 コヘレト 8:10-17 【旧約・ 1043頁】
第二の日課 1テモテ 2:1-7 【新約・ 385頁】
福音の日課 ルカ 16:1-13 【新約・ 140頁】

前章(15章)では主イエスは、徴税人や罪人と共におられるご自分に対して不平を言う、ファリサイ派・律法学者ら権威者たちに対して、「見失った羊」「無くした銀貨」そして「放蕩息子」のたとえを語られていた。その後に続く本日の箇所では、今度は弟子たちに向かって、一連の「富」と「財産」に関するたとえを語られる。その時、主イエスを非難する者達もその場で主イエスの話を聞いていたことが、14節で「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」とあることからわかる。いわば主イエスはここで、そのたとえをどのように受け止めるかによって、自分に従う弟子たちと、自分に対立し非難する者達との間の相違を明らかにしようとしている。
このたとえに登場する管理人の証文の書き換えという行いは、たしかに「不正」であり、その事実は変わることはない。だからこそ、この管理人のやり方を主人がほめた、という展開は、私たちにとって想定の範囲を大きく外れたものとなる。なぜこの管理人はほめられることがありうるのか、そこには私たちの日常の価値観では見出すことの出来ない何かあるのではないか、そうした問いを私たちは自分自身に向けて発し直すこととなる。
8節の「この世の子ら」と「光の子ら」という言葉は、このたとえ話が、地上の価値観に対して神の国における価値観が比せられていることを私たちに考えさせる。もちろんそれは、私たちに他人の財産を貪り、浪費することを勧めているのではない。そこではむしろ、神が私たちに委託された使命に対して、私たちはどのように応えるのかということが問われている。私たち人間の目から見て優先されるべき事、当然の事、好ましい事、それらは必ずしも神の使命に忠実であることを意味しないのである。むしろ、この地上においては低い価値でしか評価されていないことが、私たちに託された本当の価値あるものなのである。9節では金よりも優先させるべきものがあることが語られる。将来に備えるのであれば、金こそが確実で他の何よりも優先されるべきであると私たちは考える。しかし、私たちの将来にとって、本当に価値あるもの、わたしたちにとって決定的であること、それは神の国における救いに他ならないのである。
主イエスは、十字架において処刑された。多くの人の目から見て、挫折と失敗の中で、この世において最も価値低い者となったということであった。しかし、そうではないことを聖書は語る。神は主イエスをその死から蘇えさせられた。この地上において、憎まれるとき、追い出され、ののしられ、汚名を着せられ、価値の無いものとしてあざ笑われる時、「あなたがたは幸いである。その日には喜び踊りなさい」と主イエスは語る。
この地上において、自分のなす事がうまくいかない時に、私たちは嘆く必要な無い。それは神の国において決定的な事柄ではない。本当に価値あるものは、ただ神によって私たちに与え得るのである。

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