2010年9月15日水曜日

[説教要旨]2010/09/12「正しい人よりも」ルカ15:1-10

初めの日課 出エジプト記 32:7-14 【旧約・ 147頁】
第二の日課 1テモテ 1:12-17 【新約・ 384頁】
福音の日課 ルカ 15:1-10 【新約・ 138頁】

 前章(14章)では、主イエスはエルサレムへの旅の途上で、敬虔な信仰者の代表であるファリサイ派の家に立ち寄られたが、本日の箇所では、「徴税人や罪人が皆」、主イエスのもとにやってきたことが報告される。当時、信心深く厳格なファリサイ派は、民衆の指導者として尊敬を集めていた存在であった。それに対して、主イエスの時代、徴税人は異教徒であるローマ帝国の手先として厭われた職業であった。またここで並んで挙げられている「罪人」も、道徳的な意味で悪いことをしたというよりもむしろ、「敬虔さ」や「信心深さ」の基準としての掟を破らなければならないような職業についている人々をも意味していた(徴税人は、度々「罪人」と並列におかれた)。彼らはいわば、当時の社会の中心からはじき出された存在であった。
 現代においては、個人は職業選択の自由を有している。しかしそれですら、経済状況によっては、必ずしも選択肢があるとは言えない。まして古代において、職業選択は個人の意志の及ぶものではなかった。徴税人や罪人らは、自らの意志でその働きを選んだのではなく、生きるためには、そうするしかなかった人々なのである。いわば、彼らは生きるためには、罪を犯さざるを得なかったのであった。彼らにとっては、信仰深く生きること強制されることは、生きることを放棄することを強いられることであった。
 そうした人々と共に、主イエスが交わり、食卓を共にされることを、敬虔で信心深い者たちが非難する。人々を教えている立場にあるにもかかわらず、そのような不信仰な者たちと共に交わり、あまつさえ食事すら共にするとは、教師としての自覚も誇りもないのか。そのような不満と疑問が、非難する人々の胸の内には渦巻いていたにちがいない。非難する人々にとって、信仰とは自分たちが受け継いできたものの内に留まり、そこから逸脱する者と断固として対決する態度であった。つまりそれは、信仰を守ること、それは壁を築き、その壁を守ることであった。
 しかし、主イエスはたとえを用いて、この非難に応えられる。羊の放牧、家の中での探し物、それらはいずれも民衆の生活そのものであった。しかし、その日常生活の中で繰り広げられる出来事は、私たちの考える価値観からあまりにもかけ離れたものであった。99よりも1の方に、大きな喜びがあり、1枚の銀貨(およそ一日の日当)が友達と祝うほどの価値がある。それは理性的には明らかに破綻した計算である。しかし、その破綻は、同時に私達自身が生きてゆく上でぶつかる様々な「壁」が崩壊する姿でもある。時として、私たちは疎外感や孤独感の中で、壁の外に取り残されていることを実感する。しかし主イエスの言葉は、その壁を崩し、私たちのもとに大いなる天の喜びをもたらすのである。

0 件のコメント: