2010年9月6日月曜日

[説教要旨]2010/09/05「自分の十字架を背負って」ルカ14:25−33

聖霊降臨語第15主日

初めの日課 申命記 29:1-8 【旧約・ 327頁】
第二の日課 フィレモン 1-25 【新約・ 399頁】
福音の日課 ルカ 14:25-33 【新約・ 137頁】

多くの群衆が主イエスの後を追ったことを聖書は語る。それはいわば、主イエスの宴席への招きに人々が応えたことを意味している。主イエスの語られた天の宴席は、地上の生活の様々な条件、すなわち資産や階級、民族などに応じて、限られた者のみが与ることの出来るものではなかった。そのメッセージを耳にした多くの人々が、主イエス共に歩むことに希望を見いだしたのであった。
しかし、主イエスはその人々に向かって厳しい言葉を告げる。「~でないならば、私の弟子ではありえない」という言葉が繰り返される時、主イエスの弟子であることの困難さが語られる。それらは「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(マタイ22:14)の言葉を彷彿とさせる。いわば、これらの教えは、直前の宴席のたとえをさらに補足し、主イエスの招きの意味をもう一度群衆とそして読者である私たちに語っている。
そこではまず始めに、両親を始めとする親族を憎むことが、弟子の条件とされる。「憎む」という言葉は非常に挑発的であり、それゆえに私たちはこの教えを受け入れることを思わず躊躇してしまう。しかし、逆の状況を考えてみる時、この言葉は大きな励ましと慰めであることに気付かされる。すなわち、家族・親族の背景がどのようなものであったとしても、それは私たちが主イエスに従うことを妨げることは出来ない、ということなのである。つまり、主イエスに従うためには、この地上の生活におけるどのような条件も大きな問題ではない。家族・親族によって代表されるもの、それは資産、権力、身分、能力、しきたりと伝統に関する知識、共同体の成員としてふさわしく振る舞うための「らしさ」、そうしたものの全てである。それらは、主イエスに従い、宴席に共に与るために何ら問題とならないのである。
そして次いで「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」と主イエスは語られる。私たちは、物語の中の「今」、主イエスご自身がエルサレムにおける十字架に向かって度を続けておられることを思い起こす。その主イエスについて行くことは、すなわち、自分自身もまた十字架を目指すことに他ならない。主イエスが体験された十字架とは、この地上における挫折、悲しみ、孤独、裏切り、そうしたものが凝縮された出来事であった。それは同時に、私たち自身が、自分自身の人生の中で直面せざるを得ない、様々な苦しみそのものでもある。それらの苦しみへと向き合うことを、主イエスはご自身の弟子であることの条件とされるのである。実に、主イエスが弟子の条件として提示されるもの、それは私たちがどのような民族・社会に生まれたか、どのような資産を持つ家庭に生まれたか、ということなのではなく、一人一人が悩み苦しむ人間であることそのものなのである。そして、その苦悩の先には新しい命があることを、主イエスはご自身の十字架の死からの復活によって示された。まさに苦しみと悩みの中にある時、私たちは主イエスの後に既に従っている。そしてその道のは、新しい命の希望至る道なのである。

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