2010年10月9日土曜日

[説教要旨]2010/10/03「共に生きるために」ルカ17:1-10

聖霊降臨後第19主日

初めの日課 ハバクク 2:1-4 【旧約・ 1465頁】
第二の日課 2テモテ 1:3-14 【新約・ 391頁】
福音の日課 ルカ 17:1-10 【新約・ 142頁】

本日の福音書の日課につけられた「赦し、信仰、奉仕」という新共同訳の小見出しは、確かにこの箇所において取り上げられているモチーフを簡潔に表している。しかし、それらはどのようなつながりを持っているかを、聖書を前にする読者は今一度考えてみることが求められている。
この箇所のいくつかの教えから、つまずきをもたらす者への決定的な裁きの恐怖、奇跡的な信仰の力の強調、使徒的な働きへの過小評価などを結論として導くことは適切ではない。なぜならば、そこにはこれらの教えを結びつけるものが見えてこないからである。これらの結論は、信仰の共同体の中で、自らの立場を正しいものとする時に出てくるものであると言える。すなわち、自分は、躓きをもたらす者ではなく、奇跡的な信仰の力を持ち、使徒的な権威を持ちつつもそれ誇ってはいない、という立場からの理解である。
しかしむしろ、その逆の視点から見る時にこそ、そこに一つのつながりが浮かび上がってくると言える。自分は、いつつまずくかもしれない者の一人であり、いつ罪を犯すかもしれない兄弟の一人であり、自らの信仰の足りなさに嘆く者であり、自分は評価に値することを何も為すことの出来ない者である。そしてその結果として、いつも周囲の者達との間での、さまざまな軋轢と摩擦に悩み、苦しむ存在でもある。しかし、たとえどのような軋轢によって悩まされていたとしても、自分自身の弱さと傲慢さに失望していたとしても、私達はそのことによって信仰をあきらめる必要はないのである。つまずく者は守られるべきであり、罪を犯した者は赦されるべきであり、たとえわずかな信仰であっても十分であり、不必要な取るに足りない働きなど一つもないのである。いわば、この地上における基準に照らして、より強くより正しくより高みを目指すことは、信仰においては必要ではないのである。
主イエスは十字架刑という、この地上の基準では、最低最悪の評価を与えられた存在であった。しかし、命の創造主である神は、主イエスをその死から甦させられた。この主イエスの十字架と復活の出来事は、私達にこの世の基準によっては測られることのない新しい世界、神の国の始まりを示したのである。主イエスの十字架のメッセージ、神の国の福音を聞いた者は、人はその強さと正しさによって、周囲から優れた者であるとして評価されることを追い求めることはもはや必要ではなくなる。むしろ人間としての弱さと低さを互いに受け入れあうことが喜びとなるのである。主イエスの言葉、それは罪ある者、力なき者を信仰の弱い者として排除してしまう私たちを、共に生きる者へと変えられるのである。

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