2010年1月7日木曜日

[説教要旨]2010/1/3「不安と喜びと」

顕現主日

初めの日課 イザヤ 60:1-6 【旧約・1159頁】
第二の日課 エフェソ 3:1-12 【新約・354頁】
福音の日課 マタイ 2:1-12 【新約・  2頁】

 伝統的な教会の暦では、顕現日にマタイ福音書における主イエスの誕生物語が読まれてきた。主イエスの誕生に際して、東方の占星術の学者らが訪れた、ということを通して、主イエスの王的支配が世界中に示されたということを思い起こすためである。しかし、あらためてこの箇所を読み返すと、ここでは主イエスは、その奇跡的な誕生の出来事と裏腹に、何も積極的な行動を担っていないことに気付かされる。古代の偉人物語にあるように、生まれ落ちてすぐにしゃべったり、奇跡的な行為をなしたりすることがない。主イエスは、無力な赤子として、その姿を世に表す。その無力な赤子を、星が指し示す。旧約の伝統の中で星は、神から特別な使命を与えられた者、すなわちメシアを指し示すものと理解されていた(民24:17、イザヤ60:3)。この星を見いだした東方の学者たちは喜びに溢れる。本来、旧約の伝統に立っていない、イスラエルの枠組みの外側にいるはずの、東方の学者達が、このメシアのしるしを見て、「はなはだしく大きな喜びを喜んだ」。それは言うまでもなく、星を通して学者達が出会うことが出来た方、すなわち主イエスとの出会いの喜びである。そしてその喜びは、ルカ福音書において、天使がマリアに、そして羊飼い達に告げた「喜び」であった。いわばそれは、人の力によってうみだされる喜びではなく、神から来る喜びである。
 その一方で、都エルサレムの権力の中枢にいる、ヘロデ大王を筆頭とする人々にとって、この星は激しい恐れと不安をもたらすものであった。この不安(恐れ)は、湖の上を歩く主イエスを見た弟子達が駆られた恐れと同じもの、いわば神の力を前にした人間の恐れであった。ヘロデ大王は、この恐れを取り除くため、己の権力を駆使して、無力な赤子を全て葬り去ろうとすることとなる。しかしその計画は実を結ぶことはなかった。
 ヘロデとエルサレムの人々がメシアを示す光に抱いた恐れとは、自分たちが作り上げ、守っているものが失われることへの恐れであった。その恐れから逃れるために、メシアとの出会いを暴力的に拒絶するにもかかわらず、その試みは空しく終わることとなった。ヘロデ大王が守ろうとしたものは、現代に私たちにはその廃墟だけが残されているだけである。それに対して、故郷を後にメシアの光に導かれて旅だった東方の学者たちは、無力な赤子と出会い、人の力では決して得ることの出来ない喜びを得た。いわば彼らは、現に今、自分たちに無いものに希望を託し、その思いに勝る喜びに満たされたのであった。そして彼らが得た喜びは、今も私たちへと伝えられている。メシアである主イエスを通して私たちに示された神の力、それは私たちに、現に今手にしていないものにこそ、滅びることのない永遠の価値が秘められていることを明らかにするのである。


0 件のコメント: