2014年6月10日火曜日

[説教要旨]2014/05/25「キリストと共に生きる」ヨハネ14:15−21

復活節第6主日

初めの日課 使徒言行録 17:22-31 【新約・ 248頁】
第二の日課 ペトロの手紙一 3:13-22 【新約・ 432頁】
福音の日課 ヨハネ 14:15-21 【新約・ 197頁】

 本日の福音書を含むヨハネ福音書の13-16章はイエスの告別説教と呼ばれている。ここで主イエスは、これからこの世にあって様々な苦難に直面する弟子たちに「弁護者」を送るという約束をされる。特にこの告別説教の中では、「弁護者」というのは「聖霊」のことを指している。聖霊は、私たちを動かす目に見えない神の息吹であると教会は理解してきた。ヨハネ福音書では特に、聖霊を人間により身近に、親しく交わる存在として描く。
 ご自身の十字架とともに、弟子たちを襲うであろう過酷な運命を前にして、主イエスはくりかえし、彼らを孤独のままにしておくことはない、必ず助け手・弁護者を送ることを約束された。それは、目に見える、今手にしているものだけが、人に与えられているつながりではなく、目に見えないものの中から、自らの希望とするものを彼らが見つけ出すことができるためであった。そのことはまた、弟子達が主イエスの十字架の意味を知る、ということでもあった。なぜならば、回復することなどないはずの、死によって切り離されたつながりを、主イエスはご自身の甦りによって新たに創り出されたからである。私達のもとから永久に失われてしまったかのように見えるつながりを、復活の主イエスは、新しいものとして結びつけられる。人間の力では再び取り戻すことなど不可能であるとしか思えない、失われた命のつながりを、主イエスはその十字架の死からの復活によって、新たに創り出された。
 私たちには見えなかったとしても、その復活の主が共におられるということを、聖霊の働きかけによって人は知るということを、本日の聖書は語る。新しい命のつながりは、たとえまだ私たちの目に見えなくとも、そこにあるということ、むしろ私たちには見えないものこそが新しい命の道であることを、聖霊の働きを通して私たちは知るのである。
 実に、主イエス・キリストと共に生きるということ、それは私たちが、失われたものを、もう一度、そのままの形で取り戻すことではない。それはむしろ、私たちにはまだ見えていない、新しい命を生きるということなのである。私たちを新しい命へと向かわせるこの神の力を、主イエスは「真理の霊」と語られる。それは、かつて自分が知っていたものが失われたものをただ嘆き、時間を逆戻りさせることを虚しく願う私たちを、新たな世界へと向かって踏み出させる力である。聖書が語る真理とは、私たちを押し出す力でもある。そして、この真理の霊こそが、主イエスに従うものを励まし、支えるのである。
 私たちは失われてしまったものの大きさに絶望し、力尽きてしまうことがある。その時私たちは、自分が嘆きの中で孤独に取り残されてしまっているかのように思う。しかし主イエスは語られる。「世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」聖霊の働きによって、キリストはたとえ見なくとも、私たちと共におられることを知る時、私たちはまた、新しい世界が自分たちを待っていることを知る。そして、その新しい世界に踏み出すとき、私たちの苦しみも悲しみも、キリストによって必ず満たされ癒される、新しい時代が、私たちに開かれていることをまた知るのである。復活のキリストと共に生きること、それは私たちに与えられたつきることのない希望なのである。

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