2014年6月10日火曜日

[説教要旨]2014/05/11「呼びかける声」ヨハネ10:1-10

復活節第4主日

初めの日課 使徒言行録 2:42-47 【新約・ 217頁】
第二の日課 ペトロの手紙1 2:19-25 【新約・ 431頁】
福音の日課 ヨハネ 10:1-10 【新約・ 186頁】

 本日の日課に先立つ9章では、目の見えない男の癒しの奇跡の後、宗教的な権威を持つ者達が癒された男とその両親を問い詰め、その男が神殿を追い出されたことが記されている。この男に主イエスが「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」と語ったのに対して、宗教的な権威者達は「我々も見えないということか」と反論する。これに対する主イエスの応答として、本日の日課を含んだ、主イエスご自身の存在に関する「たとえ」が語られる。10:6で「たとえ」とされている語は、普通の本筋とは異なる仕方で語られる格言などを指している。宗教的な権威者達にしてみれば、神と信仰に関わることは、自分たちが見聞きし知っているものこそが唯一の神に至る本筋であることを疑っていなかった。したがって、主イエスの最初の「門」と「羊飼い」のたとえによって、自分たちの考え方の道筋から逸れたものを示された時、彼らはそれを理解することが出来なかった。なぜなら主イエスのたとえは人間としての彼らの権威の限界を問いかけるものであったからである。人間にとっては自明で疑ったこともないような権威に対して、本当にそうなのかと主イエスは問いかける。そのように問いかけられたことなどなかった彼らは、主イエスの「たとえ」を理解することができなかった。
その反応を受けてさらに「わたしは…である」という仕方で、主イエスがご自身の存在について「門」「羊飼い」として示される。それは、私たちにとってあたりまえで疑うことのないものとして見聞きしている権威は、決して私たちを導くものとして、究極でも永遠のものでもなく、むしろこの世の力によって生み出されたものでしかないことを問いかける。そして実は私たちには、真の和解と対話へと向かう道筋など見えてはいないこと、私たち自身で私たちの進むべき道を探し出すことなど出来はしないことを気付かせる。ならば私たちは道を見失い、迷い出ることしか出来ないのだろうか。
 だからこそ、主イエスは「門」として「羊飼い」としてご自身を語られる。私たちが道を見出すことが出来ない時、主イエスは私たちを呼びだし、私たちが帰り着く場所を示される。たしかにその道筋は、私たちに見えていた本筋とは異なるものかもしれない。それは、私たちが依っていた基盤と根拠を揺るがすこととなるかもしれない。けれども、それは私たちを真の平和へ、真の和解と対話への道へと呼び出す声なのである。
今、社会には偏狭な正義をで攻撃的に振りかざすことが空気のように浸透しつつある。他者を貶め非難し、自らの権威の正しさを疑わないことこそが、輝ける栄光の未来への道であり、その道は私たちの前に見えていると、私たちはいつのまにか思い込んでしまっているのではないか。そのような私たちに主イエスが呼びかけ、私たちがその声に聞く時、私たちは自分に見えている道ではなく、主イエスの声によって導かれる道へと歩みだすことが出来る。その道は私たちにとって、侮蔑の道、屈辱の道と映るかも知れない。なぜならば、私たちに呼びかけるのは十字架の低みへと下られた主イエスの声だからである。けれども、その十字架の先には新しい命があることを、主イエスはその復活によって示された。まさにその意味で、主イエスの呼び声は、私たちを主イエスの新しい復活の命へと呼び出す声に他ならない。

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