2014年6月10日火曜日

[説教要旨]2014/05/04「心は燃えていた」ルカ24:13−35

復活節第3主日

初めの日課 使徒言行録 2:14a、36-41 【新約・ 215頁】
第二の日課 ペトロの手紙一 1:17-23 【新約・ 429頁】
福音の日課 ルカ 24:13-35 【新約・ 160頁】

 本日の福音書は、「キリストに出会うということを、大変印象深く物語っている。本日の福音書に登場する二人の弟子逃げ去るようにして、都エルサレムを後にしたのであろう。主イエスの十字架は、彼ら自身に危険が及ぶかも知れないという恐怖と不安の始まりでもあった。その途上は、一歩一歩が失意と絶望、恐怖と不安を深めるような、憂鬱で暗澹たる時間を過ごしたのであろう。そのいわば、この弟子たちにとっての人生最悪・最低の瞬間に、「イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められ」る。
 この時弟子たちは既に、主イエスが墓にはもう居られなかったということを知っていた。しかし、そのことはまだ彼らには、何の意味も持っていなかった。それゆえに、彼らは共に歩まれている方が主イエスであるということに気付くことができなかった。彼らの心の「目は遮られていて」彼らにとっての喜びであるはずの出来事を、空の墓に見つけだすことができなかったのである。その時の彼らは「暗い顔」をしていたと、聖書は告げている。キリストの復活を語る彼らはなお不安と絶望の中に留まったままであった。
 こうした弟子たちの姿を嘆いて、主イエス自ら聖書の説き明かしをされた時、彼らの中で決定的な変化が起こる。彼らが目指していたエマオの村に着いたとき、なおも先へ行こうとされる主イエスを二人は引き留め、共に食事の席に着き、パンを分かちあう。その時、彼らの「目が開け」、自分たちの目の前にいる方、共に歩んで来た方が主イエスであるということに気付くのだった。しかしその瞬間に、主イエスの姿は彼らの目からは再び見えなくなる。しかし、この時おそらく、再び部屋は空になってしまったにもかかわらず、彼らは最も近くに主イエスを感じたのではないだろうか。それは、主イエスの復活の知らせが単なる報告から、彼らの生き方を根本から変える力をもった出来事となった瞬間であり、まさに彼らが真の意味で主イエスに出会った瞬間であった。
 「道で話しておられる時、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。二人はそう語り合い、時を移さず、ほんの少し前まで、最も逃げ出したい、恐ろしい場所であったはずのエルサレムへと向かう。客観的に見るならば、エルサレムからエマオへ逃げる時、逆にエマオからエルサレムへとへと向かおうとする時、この2つの場面において彼らが知っていた事実、「主イエスの死体は墓には無かった」という出来事に違いはない。しかし行きと帰りでは、その同じ出来事の持つ意味と力が全く異なったものとなっていた。「そこには何も無かった」という出来事は、復活の主イエスとの出会いを通して、絶望と不安の中で暗い顔をしていたはずの彼らに、燃える心、自分が逃げ出してきたはずのものへと立ち向かう力を与えたのだった。
 この物語がか語るものはまさにわたしたち一人一人の信仰生活そのものである。私たちが最も苦しく逃げ出したい時、私たち自身にはわからなくとも、主イエスは既に共に歩まれている。そして主イエスに出会う時、主の復活の出来事は、私たちに不安と絶望に立ち向かう力を与えるものとなる。
 私たちの生きる世界は、不安と絶望に満ち、希望も喜びも見出すことができないように見える。しかし、キリストはその私たちの不安と悲しみの道を共に歩んでいてくださっているのである。

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