2014年1月17日金曜日

[説教要旨]2014/01/12「我々にふさわしいこと」マタイ 3:13-17

主の洗礼(顕現後第1主日)

初めの日課 イザヤ 42:1-9 【旧約・ 1128頁】
第二の日課 使徒言行録 10:34-43 【新約・ 233頁】
福音の日課 マタイ 3:13-17 【新約・ 4頁】

「主の洗礼日」とされている本日は、教会の歴史の中では降誕・顕現の出来事の一環として、神がこの世に受肉したことを憶える時とされてきた。降誕、顕現、主の洗礼はいずれもが、本来天にある神の愛と慈しみが、私達人間の生きるこの地上の世界において結実した出来事であった。
他方「罪無き神の子」が罪の赦しの洗礼を受けたことは古代のキリスト教会においては大きな躓きでもあった。論理的には神の子の受洗は無意味で不必要なことである。しかしそれはむしろ、人間の論理を超えて、地上に生きる私達と同じ地平へ救い主がやって来られたことを示すのである。それゆえに本日のマタイ福音書では、冒頭で主イエスがガリラヤからヨルダン川の洗礼者ヨハネのもとへとわざわざやって来られたことを確認する。直前の箇所で、多くの人々が洗礼を受けるためにヨハネの元に集まって来ていたことが報告されている。主イエスはこの人々と合流し、民の一人としてヨハネのもとにやって来る。しかしヨハネは、主イエスを他の人々と同列に扱うことを拒絶する。確かにヨハネが、後から来る方に対して自らを「履き物をお脱がせする値打ちもない」と位置づけていたことからすれば、それは論理を通すことであった。ここで主イエスとヨハネの対話は否定と肯定とが交錯する。二人の関係に限定して見るならば、確かに主イエスの発言はヨハネのその思惑を否定している。しかしその周囲にいる民の視点から見るならば、それはヨハネが行っていた働きを肯定し、その働きを続けるように励ましているのである。権力者の腐敗を糾弾し、悔い改めを呼びかける洗礼者ヨハネの活動は、確かに一人の人間の限界の中でその正しさを追求するものでしかなかった。やがてヨハネは支配者に捕らえられ処刑され、その活動は不十分で未完のまま終わる。しかし彼の不十分で未完の働きは、主イエスとの出会いを通して「我々にふさわしいこと」とされる。この「我々」とは直接的には主イエスと洗礼者ヨハネのことを指していると理解される。しかし物語の中で主イエスは、他の民の一人として洗礼者ヨハネのもとにやってきた。つまりここで主イエスが「我々」と語る時、そこには共にこの地上を歩む民が含まれている。洗礼者ヨハネが躊躇し断念しようとした正しいこと(=義)を、主イエスは「我々にふさわしいこと」として同じ地上を歩む多くの民と共に担われる。それは、本来であれば結びつくはずのない人の義と神の義とが、主イエスにおいて結びつけられたことを意味した。確かに神の子の洗礼は、論理的には無意味で矛盾する出来事でしかない。けれどもそのことを通して、本来結びつくはずのない、神の愛の業が私たち地上に生きる者の営みと結びつけられたのである。
主イエスが水から上がられた時「天が開いた」。それはまさに神の意志が働いて天をも動かし、新しい時代の幕が開いたことを示す。さらに天から鳩のような聖霊と共に「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が届く。主イエスが「我々」の一人として、この同じ地上を歩まれたことによって、地上において様々な限界の中でしか生きられない私達もまた、神によって「私の愛する子」と呼び出され、この地上での営みの中で、神の愛に触れ、そしてその神の愛を隣人と分かち合うことができるのである。

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