2014年1月9日木曜日

[説教要旨]2013/12/29「嘆きの声の中で」マタイ 2:13-23

降誕後第1主日

初めの日課    イザヤ 63:7-9    【旧約・ 1164頁】
第二の日課    ヘブライ 2:10-18    【新約・ 402頁】
福音の日課    マタイ 2:13-23    【新約・ 2頁】

クリスマスの祝祭の期間、教会の暦は奪われ失われた命について思いを向ける。12/26は殉教者ステファノの日、そして12/28には本日の福音書と関連して幼子殉教者の日とされている。つまりクリスマスの祝祭は本来、既に衣食住と基本的な生命の安全が守られている私たちが、より多くの物によって満たされることを祝う時なのではない。むしろそれは、持っている僅かなもの、あるいはたった一つの命すら奪い取られ、何も残されていない者にとって、唯一与えられた希望の出来事なのである。
本日の福音書では、天使から告げられたヨセフが、ヘロデ大王の暴虐から逃れるために、マリアそして幼子の主イエスを連れてエジプトへと旅立つ出来事が描かれている。外にはローマ帝国があり、内には様々な反乱分子を抱えたその動乱の時代を、自分を脅かす存在は、肉親であろうとも容赦なく粛正することで、ヘロデ大王は30年余りもの間君臨し続けた。それはいわば、自らが手にした物を失うまいとし続ける者が辿り着く姿であった。このヘロデの暴虐から、ヨセフは主の使いによって道を示され、逃れることとなる。
この出来事は見ようによっては、幼子イエス・キリストさえいなければ、他の命は奪われなかったのに、なぜあいつだけが生き延びたのか、そのように捉えることも決して不自然ではない。けれども福音書の物語は、別の視点からこの物語を語る。多くの命が理不尽に奪われる中で、残された命があったこと。つまり死の力は、全ての希望を抹殺することはできはしなかったということ。それによって新しい永遠の命への道は、繋ぎ止められたということを、語るのである。つまり、主イエスこそが、理不尽に奪われ、失われる命にとっての、悲しみと嘆きの声の中で残された、最後の希望であることを、聖書は物語るのである。
本日の物語のもう一つの焦点である、エジプトへの逃避行に目を向けたい。ヨセフは住み慣れた場所に戻ることなく、見知らぬ土地エジプトへと旅立ちます。それは、ヨセフ個人自身にとって大きな損失であり、人生の危機であった。しかしかつてイスラエルの民を、抑圧から脱出させ、解放へと導いた力は、今またヨセフにも働き、どのような状況の中でも、彼を見捨てることなく、見知らぬ土地で生きることを支えるのである。大きな損失を伴ったヨセフの旅立ちは、しかし彼一人だけの旅立ちではなかった。なぜなら、この地上に新しい契約として与えられた、救い主イエス・キリストが共にいるからである。それは、全ての民へと開かれた救いの歴史の始まりであった。
悲しみと嘆きの声は、現代のこの世界を覆っている。しかしその中で主イエスが共におられるという、クリスマスの喜びは語られる。悲しみと嘆きの声の中で、ヨセフが天使によって神の言葉を聞き、未知の世界に歩み出した時、新しい救いの歴史が始まった。私達もまた、神の言葉によって導かれ、新しい時を歩み出すことが出来るのである。主の導きを憶えて、新しい年を迎えたい。

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