2014年1月10日金曜日

[説教要旨]2014/01/05「導きの先に」マタイ 2:1-11

顕現主日

初めの日課 イザヤ 60:1-6 【旧約・ 1159頁】
第二の日課 エフェソ 3:1-12 【新約・ 354頁】
福音の日課 マタイ 2:1-11 【新約・ 2頁】

本日はキリスト教会の暦の中で、1年の最初に迎える祝祭日である1月6日の顕現日(エピファニー)である。アドベントからクリスマスにおいては、神の子がこの地上へと下られた、自らを低い者とされたということを憶え、そしてエピファニーとその後に続く季節では、救い主がその力と権威をこの世に現されることを憶えることとなった。
さて、この主の顕現の日にあたっては、東方の国の占星術の学者らが主イエスを伏し拝むために訪れたことを通して、主イエスの王としての権威と力とが世界中に示されたということを思い起こす。この東方から来た者達は「占星術の学者」たちであったとされているので、彼らが星を見て行動するというのは当然ではある。しかし、元来東方の占星術の学者達は、聖書の民、イスラエルの民の外側からやって来たのであり、救い主とは何の接点もない存在であった。いわば、ここで星は、救済史の外側にいた筈の占星術師たちを救い主と結びつけるもの、救い主がどこにいるかということを人間の領域の外から指し示すものとなっている。人間の人生の中では、どれほど努力したとしても迷い道から脱け出すことが出来ずに途方に暮れることは決して少なくない。そのようなとき、生きる方向を見出すことができるのは、私たちの外側から進むべき方向が示されることによってなのである。東方の占星術師達が目指した星の光は、イエス・キリストを知らないもの、それこそ縁もゆかりもないものにも、あるいは道に迷うものの上にも、その光が届いていることを聖書は物語る。
星に導かれてヘロデの待つ王宮にたどり着いた占星術師達は、聖書の言葉に出会う。星の輝きは、彼らを聖書すなわち神の言葉へと導くものであったことがここで明らかとなる。しかし、ヘロデの王宮は彼らが目指していたものではなかった。皮肉なことに、聖書の言葉は、彼らの目指すところは彼らが予想した場所には無いこと、その外側にあることを語る。
聖書の言葉によってさらに進むべき道筋を示された彼らは王宮を離れ、ついに目指す救い主と出会う。しかしやっと辿り着いた彼らは、その訪ねた相手から、ねぎらいの言葉すらかけられることはなかった。そこにいたのは貧しい夫婦と生まれたばかりの無力な幼子だけであった。そこは、いわば無力と弱さが支配する場所であり、学者達が王として訪ねた相手は客観的にはむしろ援助を必要とするような者たちであった。それはまるで、何の救いもないようなこの世の悲惨な現実であった。けれども、この出来事こそ、救い主の降誕が私たちに語りかける福音のメッセージであった。なぜならば、救い主はどこにいるのかという問いへの答えとして、救い主は、徹底して私たちと同じこの地上に、そしてまさに無力さと弱さのなかにおられるということをこの出来事は私たちに示しているからである。地上の無力のただ中に、救い主はおられるのである。無力さの中に与えられた救い。そのメッセージは、この無力な赤子が、やがて、「ユダヤ人の王」という罪状とともに、人間の目には挫折と絶望としか映らない、十字架の死へと向かわれることとなる時に、より一層明らかなものとなって私たちに示される。

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