聖霊降臨後第17主日
初めの日課 エレミヤ 11:18-20【旧約・ 1198頁】
第二の日課 ヤコブ 3:13-4:3、7-8a 【新約・ 424頁】
福音の日課 マルコ 9:30-37 【新約・ 79頁】
本日の福音書では、先週の日課に続いて2度目の受難予告がなされる。しかし、弟子たちにはこの言葉が一体何を意味しているのか、つまり十字架の意味をまだ理解することが出来なかった。
その弟子たちはまた、その旅の途中で「誰が一番偉いか」について議論する。おそらく、来るべき「神の国」誰がより高い地位に就くことができるかと議論して
いたのではないだろうか。この世の中での幸せを得るために、より高い地位、より強い権力、より多くの財産を求めようとすることは、この世の論理と価値観に
従って考えるならば、なんら間違いであると言って批判することはできない。しかし、主イエスは、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて、
三日の後に復活する。」と弟子たちに教えておられたのだった。福音書において「人の子」という呼称は、受難と復活の予告をする主イエスの一人称である。
「人の子」は弟子達が期待したような「高い地位に就く」存在とはおよそ正反対のものであった。
主イエスが宣べ伝えられた神の国は、人間を縛り、そして苦しめている、差別、抑圧、病、貧困、孤独などのあらゆるこの世の力が滅ぼされてしまう場所であっ
た。そこは、この世の論理と価値観では、決して喜びや希望など見出されるはずなど無いところに、喜びと希望に満たされる世界なのである。そして「人の子」
主イエスは、何よりもその神の国を人々に与えるため、十字架に架けられ、殺される運命を受け入れられたのです。十字架刑による死という、人間の論理・価値
観で見るならば、最も暗く悲惨な運命から復活されたということ、それは人間にとっては絶望しか見いだせない場所に、神はキリストという希望の光を与えられ
たということなのである。このキリストのおられるところこそが神の国の現れるところであり、キリストこそ人の形をとった生ける神の国であることを、福音書
は語るのである。
主イエスは「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて」、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れ
るのである」と教えられる。古代のユダヤ社会では子どもとは、定められたことを実現出来ない未熟な存在、集団の成員としてはふさわしくない存在を表すもの
でした。そのようなふさわしくない者をして、主イエスは「このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」と語られる。それはまさ
に、この地上であたりまえとされる論理・価値観に属して私たちが生きるではなく、神の国に属する新しい命を生きることであった。実に、私たちがキリストと
その教えを受け入れる時、同時に私たち自身が神の国に受け入れられているのである。たとえ私たちがこの世の力によって翻弄されていたとしても、キリストを
受け入れ、キリストの十字架に示された希望をめざし、その言葉に従って生きるならば、私たちは神の国に属して生きているのである。それは、私たちが、古い
この世にありながら、全く新しい命を生きることなのである。
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